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2009年8月2日日曜日

『おくりびと』:死んで赦される人々

主人公の初仕事は衝撃的なものであった。アパートで孤独死したおばあさんが、死後二週間して発見される。遺体は異臭を放っている。それを回収せねばならない。腐敗した遺体の足をつかみながら、彼は何度も嘔吐する。想像しうる限り「最悪」の死体である。

その日、彼が帰宅すると、妻が用意していた夕食は鶏鍋だった。鶏の「死体」を見て、彼はまた嘔吐する。

だが次の瞬間、彼は不可解な行動にでる。妻に抱きつき、妻の服を脱がしはじめるのである。なぜだろう?

この妻は、後に夫の仕事が納棺師であることを知り、「汚らわしい」と言って家を出て行く。しかし、何ヶ月かして突然戻ってくる。夫婦は和解する。妻は「あかちゃんができた」と言うのである。

不思議なことに、異臭を放っていたあの最悪の「死」も、こうして一つの命を「誕生」させたわけである。

死者を「プラスマイナスゼロ」にすること。死者の人生をイーブン・パーに戻すこと。言い換えれば、スタート地点に再び戻してやること。この映画が納棺師の仕事を通して描いているのは、そういうことのようだ。

この映画には種々多様な葬式が描かれている。だが、葬られる者たちには共通点がある。彼らはみな、生きている間はそれほど幸せではなかったようなのだ。肉親から認められていなかった者たちの葬式が延々描かれているのである。

最初は本木扮する主人公が死に顔を見て「きれいだ」とつぶやく「女性」。しかし、「彼女」は生物学的には男性だった。つまり、男として育てたかった両親を困惑させていた者が死んだのである。

暴走族の少女の死もしかり。両親は、少女の死後も彼女の髪の毛の色までも気に入らない。こんな子に育ってしまって、という思いが両親にある。

一人の母も、どうやら生前は夫に大切にされていなかったようだ。夫は妻の化粧には無頓着で、口紅のありかも分からない。最期、死に化粧を施された妻を見て、夫は初めて妻の美しさに気づく。

もっとも象徴的なのは、もちろん主人公の父親の死である。妻子を捨てて蒸発した父を、主人公はずっと許せないでいる。主人公にとっては罪深い人の死である。

いわば、死者たちはみな「負債」を抱えている。

しかし、主人公が行う納棺の儀式によって、死者が抱えていた人生の「負債」が、いつの間にか消え去っていく。プラマイゼロになる。

「女性」を生きてきた男は、納棺を通して女としての人格を両親に認められる。両親から責められ続けてきた暴走族の少女も、いや責められるべきは自分たちだったという悔い改めを両親にもたらす。生前はきれいだと言われたこともなかった妻も、ひとたび棺に納められると夫から最後の愛の告白を受ける。

急死した銭湯のおばさんも、最後のクリスマスを「他人」と過ごしたことから察せられるとおり、家族から大切にされていた人ではなかった。しかし、斎場で荼毘に付されるに至って、息子の心が大きく変化する。息子は涙を流しながら棺が炎に包まれていくのをじっと見つめ、「ごめんのぉ、ごめんのぉ」と母に手を合わせるのである。

主人公の父親もそうだ。息子に赦され、彼の人生は見事にイーブン・パーになった。なにも財産は築けなかった父だが、肉親から疎まれるという罪あるいは負債だけは、息子の執り行う納棺の儀を通して、帳消しになった。プラマイゼロ。そのことは、父の部屋の片隅に置かれていた小さな段ボール一箱が象徴的に示してもいた。

腐敗したおばあさんの死は、回り回って、離れかけた主人公夫婦の関係を「元に戻し」てくれた。そして30年不在だった父の死を境に、「夫は納棺師です」と公言できるようになった妻と共に主人公の人生もいわば二周目に入っていく。

イーブンパーは「ゼロ」だが、スタート時のゼロとは違う。一周回ってたどりついたゼロだ。

そんなイーブン・パーの不思議な充足感と共に、主人公は近く生まれてくる子供の「父親」として人生の二周目に進むことになるのだろう。

2009年6月21日日曜日

『セイブ・ザ・ラストダンス』:見られなくては意味がない

一応は、女子高生バレリーナの挫折と成功を描いた映画だろう。
彼女はジュリアードでダンスを専攻するため、実技の入試を受ける。しかし、母親がそのステージを観に来ていないことに動揺した彼女はダンスを失敗、しかも、会場へと急いでいた母は事故を起こして死んでしまう。彼女は別れた父に引き取られる。父の街はシカゴ。新しい学校は黒人の生徒ばかり。そこで彼女は恋をし、彼からヒップホップをたたき込まれ、もう一度ジュリアードのオーディションを受ける。舞台袖からは彼が見守ってくれている。さて結果はいかに……という筋立て。

これを、人生はやり直しがきくか、という物語としてみることもできるだろう。だいたい、最後のオーディションの場面は、あからさまに最初のオーディションの「やり直し」なのである。審査員まで同じだ。二度目のオーディションでも、舞台で一度演技を始めた主人公が、一度とちってもう一回やり直す、という念の入れようだ。

この大きな筋を中心にして、他にもさまざまな「やり直し」が描かれる。たとえば、母の死後、主人公を引き取った父親からみれば、これは親子関係のやり直しの物語である。主人公の彼は、かつては不良仲間と行動を共にし警察に追われることもあったが、物語の最後には仲間からの誘いをはねつける。その裏側では、やり直しのチャンスをとらえ損なう黒人青年たちの姿も描かれる。

主人公は、最初のオーディションで「母の不在」に動揺した。二回目は、「彼の不在」のせいで失敗しかける。しかし、そこに彼が駆けつける。こうして「やり直し」は成功する。

ここに答えがあるようだ。成功の秘密が。それは「人に観てもらうこと」である。

映画のはじまりから私が気になっていたのは、主人公が「人に見られること」に必要以上に敏感である点だった。

そもそも、オーディションで自分が踊る姿を母親が「見てくれるかどうか」が大きな問題だった。シカゴの黒人が圧倒的多数を占める高校では、白人の彼女はじろじろと見られる存在になる。その地区の病院の待合室でも、彼女は周囲から奇異の目で見られる。子供たちが彼女を無遠慮に見つめるのである。黒人の彼氏と地下鉄に乗っていたときも、中年白人女性が、いちゃつく二人の姿を絶えず盗み見している。後に二人の仲は危機を迎えるが、そのとき彼女が口にするのは「私たちが一緒にいるのを見て誰も喜んでいない」という言葉だ。自分たちのような黒人と白人のカップルを見て周りの人々が喜んでくれない。そこを気にすることで、彼女は彼との関係をこじらせていく。

しかし、「だから人がどう思うかなんて気にするな」という話ではない。
この映画は「我が道を行け」と言っているのではない。むしろ逆だ。
人に見られてこそ幸福がある、ということのようだ。

地下鉄の場面を思い出したい。あのとき、おばさんにじろじろと見られることを、彼女は楽しんでいたのだった。あるいは映画の冒頭では、オーディションで踊る姿を、母に見てもらいたくて仕方がなかったのだった。最後のオーディションで「やり直し」が成功するのも、結局は、駆けつけた彼が彼女の踊りを「見ていてくれるから」だった。

今思い出したが、そういえば、彼女が新しい高校で最初に受けた授業の一コマが案外重要なのではないだろうか。後に彼女の彼氏になる男子生徒が、彼女に向かって「リチャード・ライトとかジェイムズ・ボールドウィンとか読んだことがないだろう」と言ったのだ。二人とも偉大な黒人作家だ。そのとき、彼女はその問いに対して絶句した。どうやら彼女は黒人作家のことを知ってはいても、彼らの作品を「見てはいなかった」ようなのである。

この後彼女は、黒人の彼の姿を「見る」ようになる。込んだクラブで彼が踊る姿をちょっとすねながら彼女が離れて見つめている場面も印象的だ。ちょっと高くなったところにいる彼女が、群衆の中の彼を見つめ、彼がそれにハッと気づいて彼女の元にやってくる。まなざしが交換されるこの場面こそが、二人の仲を決定的に深めた瞬間だと思う。

ここに、現代のアメリカ社会において「相手を見る」ことの現実的な意味があるようだ。それぞれの人種が我が道を行っても、その果てには幸福はないということである。だから、オーディションの審査員たちは、彼女の踊りの中に白人のバレエと黒人のヒップホップのハーモニーを見て、この映画は終わる。アメリカが「やり直し」て目指さねばならない姿がそこにある。

(蛇足だが、音楽的には、白人歌手のヒット曲を黒人歌手がカバーしているヴァージョンが使われていて、印象的だった。彼女の決めぜりふ--"Nobody wants to see us together."--もAkonの歌を思い出させるし。ただ、Akonの歌詞は「みんな俺たちのこと気に入らないみたいだけど、そんなの関係ねぇ」って続くから、二人がみんなに認められていくこの映画の筋とは違うのだが。Akonはこの映画を見間違えてしまったのだろうか?笑 ちなみに、こんな歌です。

2009年5月30日土曜日

金子みすゞの「わたしと小鳥とすずと」の読み方

今回も映画でなくてすみません!

先日、教室の学生たちに手を挙げさせてみたら、全員が金子みすゞの詩「わたしと小鳥とすずと」を知っていた。小学校の国語や道徳で習ったのだという。だいたいこんな詩だ。

 わたしが両手をひろげても
 お空はちっともとべないが

 とべる小鳥はわたしのように
 地面(地べた)をはやくは走れない
 
 (中略)

 すずと、ことりと、それからわたし

 みんなちがって みんないい

ネットで検索すれば多くの先生たちがこの詩を使った授業を紹介していることがわかる。私の学生たちも小学生の頃そのような授業を受けていた。「一人一人を大切にする心を身につけよう」みたいな個性礼賛的な読まれ方をしている、という。もっともなことだ。この詩の最後の一行には「みんなちがって、みんないい」とある。

しかし、ほんとうに個性万歳、みたいな詩なのだろうか。

ここで金子みすゞには「循環グセ」があったことを思い出してみたい。たとえば、「木」という詩では、四季の中で変化してしていく木について書いているのだけれど、金子は非常に奇妙な表現を使っている。


 お花が散って
 実が熟れて、
 その実が落ちて
 葉が落ちて、

 (中略)

 そうして何べん
 まわったら、
 この木は御用が
 すむかしら。

誰でも「まわったら」という表現が気になるだろう。どうやら金子の目には、木が「まわる」ものとして映っているのである。それは木が物理的に回転しているということではなくて、四季という一つの「循環」の中に存在しているということだろう。

この「循環」は、第一行「お花が散って」がさりげなく示している。
ヘボ詩人なら「お花がさいて」と書き始めただろう。ヘボ詩人は、生物は生まれそして死んでいく、という直線的な世界観で生きているからだ。しかし、金子は「死」を一番先におく。花が散る、葉が落ちる。そう書いてから、次に「芽が出て花が咲く」と書く。死んで生まれる。

この逆転が可能になるのは、金子が時間を直線ではなく円としてとらえているからである。生と死が円の上の二点なら、生物たちは、生→死→生→死、をひたすら繰り返すことになる。つまり、円上のある地点では、死んで生まれるという「逆転」が可能になる。(本当は「逆転」でも何でもない。それが「逆転」に見えてしまうのは、私たちの多くが直線的な時間観を持って生きているからである)。誕生よりも死が先にあるという金子の世界観は、金子が時間を「循環」する輪としてみなしているからこそなのだ。

このような金子の循環グセについては別の本(東大入試なんちゃらという本)で他の詩も参照しながら書いたので、詳しくは、直ちに右側のアマゾンのリンクをクリックして、あまり深く考えずに購入していただきたい(笑)

さて、この循環癖を踏まえて、「わたしと小鳥とすずと」の「みんなちがって、みんないい」を読んでみてはどうだろうか。つまり、この詩は一つの循環の中の三者について歌っているのではないか、と考えてみたい。いわば「打順」の詩ではないのか、と。ためしに、こう書き換えてみたらどうだろう。

松井が右手をひねっても、
ボールはちっとも曲がらないが、
曲がる松坂は松井のように、
ボールを遠くに飛ばせない。

松井がからだをゆすっても、
はやくは走れないけれど、
走れるイチローは松井のように、
たくさんホームランは打てないよ。

イチローと、松坂と、それから松井、
みんなちがって、みんないい。

この詩の出来損ないを読んで、ここには「個性を大切にしよう」というメッセージがある、という感じにまとめてしまうと、半分ぐらいしか読んだことにならない。

これは野球の詩(みたいなもの)である。野球選手には、それぞれのポジションがあり、それぞれの打順がある。各選手の特性を「個性」と呼ぶのは不正確である。むしろ大切なのは各選手の異なった「役割」なのである。打順という一つの「循環」の中では、ある特性を持つことで選手が得るのは、たんに気ままに振る舞う自由ではなく、個性に応じた「役割」なのである。

循環癖を持つ金子が書いた「わたしと小鳥とすずと」も、個性ではなく、役割のことを言っている。私はそう思う。

単独で存在し、ばらばらの方向を向くことを許すことにもなる「個性」を礼賛しているのではなく、個々の存在は、大きな「循環」の中で結びついている。その中でそれぞれが異なった役割を担っているんだなぁ、という感慨を金子は描いているのだろう。あらゆる生物はつながっていて、循環していて、(有名な「大漁」も「積もった雪」もつながりについての詩だ)その関係性はなかなか目にはみえないけれども、みえなくてもあるんだよ、ということだ。そんな見えにくいつながりを、三番目に登場する「すず」は示しているのかもしれない。ついつい生き物ですらない「すず」をもってきたのは、「すず」が「わたし」である金子み「すゞ」とつながっていることを、金子が心のどこかで感じ取っていたからだろう。

金子は、「葉が落ちて、それから芽が出て、花が咲く」と書いた。野球でも、自分が犠牲バントで「死んで」、別の走者を進めて、得点する。「わたしと小鳥とすずと」も、それぞれが個性に応じた「役割」を担うことで、世界全体が丸く収まっていることを示しているように思う。

最近、自分の「個性」という幻想を真に受けた若者たちが、会社で「役割」を担うことを嫌って、すぐに退社していくという。いや、私は世相を嘆いているのではなく、自分自身、循環あるいは「見えない結びつき」に気づくのに時間がかかりすぎたと反省をしているのである。

2009年5月24日日曜日

すべての手塚漫画は弔辞である

映画じゃないですが、手塚治虫の漫画についてもう少しだけ。

いきなり「すべての手塚漫画は弔辞である」なんて大風呂敷をひろげてしまうと、「すべての人間は生まれ、やがて死ぬ」みたいにおおざっぱすぎて意味がない、ということは承知している。しかし、そう言い切ってみたくなってしまったのは、さきほどNHKで『ジャングル大帝』の最終回をみたからだ。

吹雪の山の中で、主人公の白いライオン・レオが死ぬ。一緒に山を下りるヒゲオヤジに自分の肉を食わせ、毛皮をまとわせるためだ。レオはヒゲオヤジに「記録」を持ち帰らせようとしていた。それは物語上は「月光石」なるものの記録なのだが、本当はそんなことはどうでもよくて、実は、死んだ者の「記録」なのだろう。なぜなら、ヒゲオヤジがこう言うからだ。

「おまえのことをジャングル中に話してやるよ。レオは死ぬまで立派なジャングル大帝であった……とね」。

そしてまもなく山を下りたヒゲオヤジは、レオの息子ルネと偶然出会う。二人はジャングルへ戻っていく。こう語り合いながら。

「帰ったらみんなにな、お父さんがどんなに立派だったかを話してやろうな」

この繰り返しが、すべてを語っているのではないだろうか。
この地点から『ジャングル大帝』全体を振り返ってみれば、この長大な漫画自体が「死んだお父さん(レオ)がどんなに立派だったか」というエピソードの集積に他ならないことがわかる。いわば、この漫画は壮大な「弔辞」だったのである。

この最終回を知らなければ、私も『ジャングル大帝』を子ライオンのレオが成長していく物語だと思ったかもしれない。しかし、時間の流れは子供→大人、という普通の方向ではないようだ。むしろ、大人→子供、という過去へとさかのぼる方向なのだ。つまり、これはお父さんがまだ子供だった頃の物語、あるいは、死者がまだ生きていた頃の物語、なのである。それを死者の家族(息子)が、あるいは死者の化身が、私たちに語って聞かせる、という形なのだ。

いきなり私は「すべての手塚漫画は弔辞である」と言い切ったが、実際には、私はまだ『手塚治虫名作集』なるものを3冊読んだだけなので、ハッタリもはなはだしい。しかし、その三冊も、同様な話ばかりであった。ただ、「死者」の形にヴァリエーションがあるだけである。

『名作集』の第二巻の巻末に、立川談志が解説を書いている。そのなかで、「アイディアは安売りできるほど(たくさん)ありますよ」という手塚の言葉を紹介している。しかし、はたして本当にそうだったのだろうか。

『名作集』に描かれているのは、たった一つのことだ。脱線事故を起こす蒸気機関車であれ、焼失する樹齢1200年の大樹であれ、風に吹き飛ばされていくポスターであれ、お岩さんの亡霊であれ、都市から閉め出された妖怪たちであれ、すべてが「死者」なのである。そして、彼らは、孤児を拾い上げ、いわば「義理の息子」として育て上げる。そして、遺された「息子」たちが、時間の流れに抗って、死者について語るのである。

本物の作家は本物の問題と向き合っている。芸術家にとっての本物の問題とは、元来、解決が不可能な問題だと私は思っている。最終解答が決して得られない問題だから、本当の問題と向き合う作家は、何度も何度も同じ話を書いてしまうのである。夏目漱石が三角関係の話ばかりを書いたり、宮沢賢治が食ったり食われたりする話を書き続けたりしたのと同じように、手塚は死者と孤児の物語ばかりを繰り返し書いた。ライオンのレオも両親を失い、人間に育てられた孤児だ。ロボットのアトムも、ある科学者の死んだ息子の化身であり、その科学者から捨てられた後、別の「親」に引き取られた孤児である。『名作集』もその手の話ばかりである。時間はさかのぼらない。死者は生き返らない。しかし、それでもなお手塚は、時間の中に葬り去られていく死者たちついて、いわば彼らの「義理の息子」(もらわれっ子)として語り続けるという重大な使命を果たそうとする。

立川談志は手塚を「天才」と呼ぶ。私もそう思う。しかしそれは、「アイディアが無限にある」からではなく、解決可能な問題にしか向き合えない凡人とは違っていた、という意味においてだ。手塚は自分にとって重要だが解決のできない問題――時間に逆らって、死者について「義理の息子」として語り続けること――への責任を果たし続けた、という点において「天才」なのだと思う。

2009年5月17日日曜日

「ころすけの橋」:手塚治虫が追いつけなかったもの

NHKBS2で、手塚治虫の「ころすけの橋」という短編漫画を見た。
ゲスト出演していた評論家の宮崎哲弥によると、作品に描かれているのは、人間と自然の単純な調和ではなく、二者の対立関係だという。もちろんそれは「あらすじ」の話である。
ある日、ニホンカモシカのリーダー「キヨモリ」が群れをしたがえて吊り橋を渡っていると、一匹の子ジカが板の間に足を挟まれて動けなくなる。群れは去り、子ジカは橋の上に取り残される。それを主人公の少年が見つけ、「ころすけ」と名付けて世話をしてやる。「キヨモリ」も、つかず離れず、「ころすけ」と少年を見つめ、守ってくれている。そのまま冬を越し、「ころすけ」が大人になりかけていた頃、シカの食害に憤った村民たちに、群れは殺される。キヨモリもころすけも。少年は号泣する。
おそらく宮崎氏は物語をこのように要約し、理解したのだろう。
しかし、私がおもしろかったのは、この短編漫画が、一匹の昆虫の話から始まっていることだった。そもそも手塚治虫なんだから、虫に注目しない手はない。「あらすじ」にたどり着く前の前置きに注目したい。
「ハンミョウって虫を知ってっかい?」と少年はいう。
山道で突然飛んできて、道に降り立ち、そこまで人間が歩いていくと、また先に飛んでいってこっちを見ている、という憎たらしい虫なのだという。
「キヨモリがそのハンミョウにそっくりだった」。少年がそう言うのは、キヨモリも、少年が近づこうとすると、常にちょっと先を逃げ続けるからだ。そんなキヨモリにイライラしてしまうのは、少年が別の悩みを抱えているからでもあった。
少年の母が家出をしたのである。父親の職業は「炭焼き」。最近の電化製品に押されて、炭がちっとも売れない。それがもとで両親はけんかし、母が出て行ったのだ。
一見、無駄にも思えるこの導入部分は、重要である。なぜなら、物語の最後で、きちんと母親が再登場するからだ。キヨモリやころすけが死んだ後、なぜか母親が家に戻ってくることを少年は知る。つまり、この短編物語は、母の不在のうちに起きた出来事なのである。
「お母さんがいない!」という叫びが、この物語の根底にある。これは「置き去り」の物語なのである。
母に置き去りにされた自分のように、群れに取り残されたころすけ。そこで、少年はころすけの「母親」になる。すると、これまでずっと少年を「置き去り」にしていた「キヨモリ」までが近づいてくる。
いくら追いかけても手の届かない対象が、「ころすけの橋」の上という特殊な空間でなら、追いつけそうな気がする。
しかし、少年は現実に引き戻される。シカのせいで村の経済が悪くなる。そこでシカたちは殺される。当然、村の経済はよくなったはずだ。すると、母親が戻ってくる。炭焼きという商売がうまくいかなくなって家族を置き去りにした母親が、景気がよくなると戻ってくる。少年の母親を呼び戻したのは、経済の回復だったのだ。
しかし、「お母さんがいない」ことが解決すると、別のものがいなくなる。
経済の回復は、シカが死ななければもたらされることはなかった。だから少年にとって、母の帰還はハッピーエンドではない。お母さんが戻ってきたのに、幸せではない。あらたに「足りないもの」ができしまった。もちろん、死んでしまったキヨモリところすけである。死んだシカのせいで、少年は幸せに決して手が届くことがない。
つまり、彼はこれから先、幸せに「追いつく」ことはできない。
あの「キヨモリ」の幽霊には決して追いつけないのである。
物語の結末、母が戻ってきた後もなお、花束をもって「ころすけの橋」を訪れた少年は、花束を自ら蹴散らしながら、「バッキャロ~!!」と叫ぶ。
するとそこに、ころすけそっくりの子ジカが現れる。少年は「ころすけ」と呼ぶ。しかし、その子ジカは、少年に背中を向けて走り去っていく。少年を「置き去り」にしていく。そして、少年の一言で幕は閉じる。
「また、あいつに会いたいなぁ」
しかし、それは無理なのである。少年には「決して手の届かないもの」ができてしまった。この漫画が子ジカの成長を通して描いていたのは、少年が大人になる姿だったわけだ。経済がよくなっても、母親が戻ってきても、決して埋められない心の空白を持って、少年は生きていく。「大人になったらわかる」と父親は言う。しかし、もう少年は大人なのである。手塚治虫にとって、大人かどうかは、どんな努力をしても決して追いつくことができない何かがあることを自覚しているかどうか、なのである。とても陰鬱な大人観である。しかし、妙に納得のいく大人の基準である。
では、手塚治虫にとって、それは何だったのだろう。彼は、決して追いつけない何を追いかけていたのだろうか。
この物語は少年の家業である炭焼きが、時代に「置き去り」にされ、時代に「追いつけ」なくなったところから始まっていた。そして漫画の冒頭には、決して追いつくことのできない「虫」(ハンミョウ)が描かれていた。だとすれば、治「虫」が追いかけていたのは、一つには、自分自身の昔の姿だったのではないだろうか。
ーーーーーー
追記2013年7月28日
漫画冒頭でハンミョウが描かれるその前に、「テッペンカケタカ」という鳥の鳴き声が森に響き渡っている。その鳴き声はホトトギスのものである。
これは最近になって理系の学生に教えてもらったことだが、ホトトギスは托卵(たくらん)をする鳥なのだという。つまり、ホトトギスとは、別の鳥の巣に自分の卵を産み、子育てを他人任せにする鳥なのだ。
だとすれば、「お母さんがいない」主人公やシカを描いたこの物語には、手塚がアトムで描いているような「代理親の主題」もあったわけだ。


2009年5月16日土曜日

『嫌われ松子の一生』:あなたの「ただいま」は独り言?

もちろん、松子とは「待つ子」である。

さっきテレビで放送していたのを見た。この映画を観るのはこれが二度目だ。

しかし、残念なことに、今回はノーカット版ではなかった。それに気づいたのは、初めて観たときにとても印象的だった場面が、最後まで現れなかったからだ。

その場面とは、松子がアイドルグループかなにかのファンになって、ファンレターを書き続け、その返事をひたすら待つというところ。アパートの郵便受けまで、何度も何度も確かめに行くのだが、いつも空っぽ。季節が変わっても、まだ返事を待っている。徹底的に待っている。

この場面が、決してカットされてはいけない部分だということは、おわかりでしょう。

松子が「待つ子」であることが描かれているのだから。

そこで待つことに注目すると、松子の不幸の原因がなんとなくわかる。

殺人をして牢屋に入った松子は、理容師との再会を待ちながら刑期を終える。しかし、出所して理容室に戻ってみると、その理容師は別の女と結婚していた。

逆に、松子の恋人が牢屋に入ったケースでは、彼の出所を待っていた松子をその恋人は殴り倒す。雪の中に倒れた松子は鼻血を流して「なんで~?」とつぶやく。

なんでか松子に教えてあげよう。

あなたは、いつも待つ相手を間違っているのだよ。

松子は待つ相手を間違えているから、いつもアパートに帰ると「ただいま~」と独り言をいうことになる。誰も待っていてくれない、という事態になる。

一方、松子は自分を待ってくれている人には背を向けてしまっている。

日記に毎日「松子からの連絡ナシ」と書いて、松子を待ち続けていた父親とは、死ぬまで会うことがない。

病院の「待合室」で再会した沢村さんは「待ってるよ、まっちゃん」と叫ぶが、松子は逃げていく。(ちなみに沢村さんには「おかえり」と言ってくれる人がマンションにいる。)
松子の妹もそうだ。病気の妹は、いつも松子を待ってくれている。しかし、松子は妹を投げ飛ばして家を出て行く。この投げ飛ばしは、二度描かれるほど念入りだ。

つまり、松子の不幸は、自分を待ってくれている人が誰なのかわかっていない、という点につきる。

(いや、もう一つ不幸の原因がある。それは金だ。松子は「これで人生が終わったと思いました」と三度感じるが、三度とも金が絡んでいる。修学旅行で生徒が金を盗む、金を松子から受け取った作家が自殺する、五〇〇万円返さない男を松子が殺す。)

自分が発した「ただいま~」を受け取って、「おかえり~」と返してくれる人がいることが、幸せの条件、なのだろう。

しかし、松子が不幸なのは、松子を待ってくれている人たちがもう死んでしまっているってことなのだ。お父さんも、妹も。

この映画では、そこで神様登場ってことになる。恋人「リュウ」が、自分を待ってくれていた松子に気づいた時は、もう手遅れで、松子は死んでいる。そもそも中学生だったリュウが最初の松子の人生を「終わらせた」張本人だったのだから、中学生に殺された松子は、ほとんどリュウが殺したようなものだ。待ってくれていた松子に気づかなかった「罪」を背負ってリュウは生きていく。つまり、リュウは、松子の物語をもう一度繰り返すかのように、これから生きていくことになる。

そしてその手には聖書が握られている。

だから、最後に、実家の階段の上で待ってくれている妹と松子が「ただいま」「おかえり」と挨拶する声が、神々しく聞こえてくるんだろう。待つとは、「信じること」だったのである。


2009年5月5日火曜日

『プレステージ』:小鳥の手品が絶対重要!

二人の手品師のライバル物語だけに、種明かしが巧妙になされていて、そこにびっくりさせられる。

最後の場面、二人の男の会話が終わった後、すべての謎が解明されたと私たちが思った瞬間、画面にあるものが映り込んで、それが無言の種明かし――本当の答え――であることをどんでん返し的に知らされる。

その瞬間、実は種明かしは、映画が始まってまもなく、さりげない形でなされていたことに私たちは気づく。

それは小鳥の手品だ。小鳥をカゴの中に入れ布で覆う。すると別のところから小鳥が出現する、という手品。しかし本当は、出てきた小鳥は別の小鳥なのである。隠された小鳥は、カゴごとぺしゃんこにつぶされ、布の中に消え去っていたのだ。

この何気ない手品の種明かしは、この映画全体の要約みたいなものだったのだ。

まず、これは「カゴからの脱出劇」でもあり、「小鳥の瞬間移動」でもある。この映画全体もこれら二つの意味合いを持っている。

もう一つ重要なのは、この手品には、うり二つの二羽の小鳥がいて、一方が殺されなければ、手品は完成しない、という点。

さて、この小鳥のトリックを映画の最後に思い出し、映画全体を振り返ってみると、この物語の二重性、三重性に気づくことになる。

一つは「瞬間移動」という大きな筋で、これは明白。エジソンのライバル、テスラ(実在の科学者で、セルビアなまりの英語を喋る人だったから、映画でもなまりが再現されている)の作った「瞬間移動道具」が実は「FAX」みたいなものだった。それを使って「瞬間移動」の手品を披露しようとすると、「原稿」が二重化されてしまうものだから、そこで手品師がどうするかと言えば……。

もう一つは「脱出劇」。ライバル手品師にはめられて、殺人の罪を着せられた手品師が、いかに牢獄から「脱出」するか、という筋。もちろん、そんなことは現実には不可能なのだが、あの小鳥のトリックを使えば、見かけ上は可能なのである。死刑になった手品師には娘がいる。彼女は自分の目の前に現れた「父親」が「脱獄」して帰ってきたのだと思い続けて手品の観衆的人生を送ることになる。(そしてそれは不幸なものになるだろう。すでに手品師の別の家族(妻)が、夫の正体がわからずに悩んで自殺していたわけだから。あの娘も大きくなったら同じような悩みを抱えることが予想される)。

三つ目は、この映画全体の物語展開。なぜ、二人のライバル手品師の物語が、一方をいかに抹殺するか、という壮絶なものでなければならないのか。表向きは、いろんな恨みだのなんだのがあるのだが、本当の理由はそうじゃない。答えはやはりあの小鳥のトリックにある。二人とも生きていては「手品」は成立しないから、なのである。

蛇足だが、二人の電気関係発明者(エジソンとテスラは直流・交流論争でライバル関係にあった)のエピソードも同様。エジソンの手下がテスラの実験施設を焼き払うのは、電気という「手品」でも、「双子」(エジソンとテスラ)のうち一人が抹殺されねばならなかった、ということだろう。現実にエジソンはテスラの交流電流を否定しようと必死だったようだ。これは見事に成功し、今の日本でもエジソンは子どもでも知っているが、テスラは大人でもあまり知らない。(テスラについては、ポール・オースターの小説『ムーンパレス』、柴田元幸訳の209-18ページにとても面白い記述があるので、興味がある人はどうぞ。エジソンについては、まず「ちびまる子ちゃん」の歌を聴いて下さい笑)

2009年3月11日水曜日

リアリズムの宿:リアルにへこむでかんわ(知多弁)

自分の人生も人から見たらつまらない人生に見えるんだろうなぁ、と思わせる映画。

この映画を作った山下監督は愛知県知多郡阿久比町出身。こう記憶しているのは、この人の別の映画で「柊祭」という名の文化祭が描かれていて、これってオレの高校の文化祭と同じ名前だなぁと思って、調べてみたことがあるから。どうやら我が半田高校のOBではなくて、となりの阿久比高校出身らしいが。

なんでこう書き始めたかというと、この映画の二人の主人公も、私と山下監督の関係に毛が生えた程度のつながりしかないからだ。共通の知り合いに誘われて鳥取県のとある駅に集合した二人。だが、肝心の友人は現れない。気まずい距離感のまま、二人は共通の趣味である映画作りの話で盛り上がるでもなく、暇つぶし的な旅をする。

旅は終始しっくりこない。何かが足りなかったり、何かが過剰だったりして、フィット感が全くない。三人集まるはずが一人足りない、二人の前に走り出てくる女にはブラジャーが足りない、釣りをしたら魚は釣れないが(不足)、別の釣り人に魚を高額で買わされる(過剰)。宿に持ち込んだ酒(過剰)は何者かに飲み干される(不足)。そば屋で飯を食おうとしたら、一人の分だけなかなかこない(不足)。二人を家に招待してくれた人は、部屋から姿を消し(不足)、その後、その人の家族で部屋はいっぱいになる(過剰)。そのあとたどり着いた安宿「森田屋」でも、味噌汁の量が異様に多く(過剰)、二人が帰るときには宿屋の人たちが出払っている(不足)。そもそも二人の内一人は女と一度も付き合ったことがなく(不足)、もう一方は6年も付き合っている(過剰)。とにかく、万事がぴったりかみ合わない。

ありがちだけれど、これは、映画作りをする二人についての映画である。小説に登場する小説家、漫画に登場する漫画家、というよくある仕掛け。この効果は、これもあたりまえだが、映画を外から見る視点が得られること。映画の中の「現実」を「これも映画に過ぎない」という外側の目で見ることになる。

だから、こういう映画を見ていると、ついつい自分の人生も外側から眺めることになる。この映画自体、じつに平凡すぎる人々の平凡な旅で、その途中で描かれる人々も、昼間からテレビを見ているようなくだらない日常を送っている。

だいたい舞台が鳥取(島根の右隣)なのだよ。私のいる札幌と、本州じゃないという点で完全に同じだ。

オードリー・ヘップバーンが王女様をやったり、ブルース・ウィルスがビルをぶっ壊したりするような別世界の映画の対極。ミッション・インポシブル的な映画が、自分の人生を忘れさせてくれる映画(文字通りインポシブルな世界)だとしたら、こちらは全く逆。いやでも自分の人生を思い出させる。

彼らは変な「旅」をしている。普通、旅とは日常から逃れるベクトルだろう。しかし彼らの旅は逆向きなわけだ。

唯一、この映画で平凡でないものが描かれているとしたら、それは、初対面の人との距離感だろう。近すぎるのだ。初対面の人が、自分の家に泊まれと言ってくれたり、魚を売りつけてきたり、だいいち、冬の浜辺で見ず知らずの女子高生が裸で駆け寄ってきたりする。しかも彼女は、このあと夜の女湯に二人の男を招き入れてくれたりもする。近すぎる。

しかし、この女の存在も、男にしては「平凡すぎる」妄想なのではないだろうか。全然リアルじゃない妄想上の女なのだろう。その証拠に、後にこの女は、財布がないのにバスに乗ってどこかに消えてしまう。

いずれにしても、世の中どこを探してもいない反リアルな女を通して、逆に現実をたたきつけてくる映画だ。こんな非現実な女の子のことを妄想する男たちの日常が照らし出され、それを見てる観客も、しょんぼりする。

オレの人生もよそから見たら、これぐらいくだらないものなんだろうなぁ、と。今日なんか、晩飯にカップ麺食ったもんなぁ。で、そのあとにこの映画をみたんだからな。

というわけで、阿久比町と半田市の感性はすれ違いましたとさ。

2009年2月16日月曜日

東京ゴッドファーザーズ:なぜ偶然ばかりの筋なのか?

家族の物語は、このトシになると身にしみる(笑)
この作品には、様々な形態の家族が描かれている。ゲイ・バーで働く母を持つ中年のゲイ、家出してきた主人公……。そして離ればなれになった家族の再結合がもっとも目立つ筋立てだ。ほとんどの人が、この作品をそのように見るのだろうし、それで感動したりするのだろう。

しかし、この作品は、それ以上のものを語ろうとしているところが面白いんじゃないだろうか。家族が「この世的」な主題だとすれば、この作品には、「あの世的」な主題が隠されていると思う。

私が気になったのは、「度重なる偶然」である。結局、「偶然って何よ」と考えてみると、この作品が隠し持っている何かがみえてくるのだと思う。ずーっと細かいところで偶然だらけだった筋立てが、最後の場面で爆発する。中年ホームレスのもっていた宝くじが一等に当選する、家出していた主人公と父親が全く偶然に再会する。ほかにもあっただろうが、思い出せない(^^;)
こういう奇跡的な偶然は、普通は、フィクションにとっては「禁じ手」であって、ご都合主義的な展開を見せられると普通はバカらしくて見ていられなくなってくる。あるいは、笑って見ておしまい、ということになる。

しかし、この作品のように、これでもかっ、というぐらい偶然を連発していると、むしろ、その偶然の連発自体に、なんらかの偶然ではない意味合いがあるのだろう、と感じられてくる。このあからさまな「不自然さ」は、なんのため?と考えたくなる。

さて、究極の偶然というのは、宝くじでも天気(雪)でも偶然の再会でもなくて、親子関係ってことなのではないだろうか。
普通、親は選べない。その「偶然」は受け入れる しかない。この作品の人々は、その偶然(=家族)の受け入れがたさとか、もろさとかに苦しんでいる。

そこで最後の場面である。あの偶然爆発の。そこでは、この作品の中心人物――捨て子の赤ちゃん――の両親が登場する。つまり、偶然によって有無を言わせず結びつけられた関係(親子)が、一度切断され(捨て子)、そして再結合される、という筋の一応の結末だ。しかし、話はここで終わりにならない。ここまで赤ちゃんの面倒をみていた三人のホームレスたちを、赤ちゃんの両親が、「ゴッドファーザーズ」にするのである。つまり、赤ちゃんに名前をつけてくれと、いうのである。

これはいったいどういうことか?普通、親は選べない。しかし、赤ちゃんの「ゴッドファーザー」は選ばれる。 つまり「親」という本来「偶然」であるものが、意図的に「選び取られる」。 さて、自分が引き寄せ、必然にまで高められる偶然とは何なのか。

それは信仰のことだろう。「ゴッド」ファーザーとは、まさに神の話なのである。

信仰とは、吟味して選ばれるものではない。信じる前に、いろいろな宗教のカタログを広げて、仏教は座禅なんかして健康によさそうだけど、クリスチャンだったら色のついた卵をもらえたりクリスマスでもりあがったりするし、ヴェールをかぶる宗教だったらノーメークでも平気だし…とか、そういう損得勘定をしてから選ぶものではない。「見る前に飛べ」的に選び取られるものが信仰だ。(内田樹が、師匠を弟子がどのように「選ぶ」かについて同様な話をしていて、これは信仰についてもあてはまるんじゃないかと思う。というか内田はすでに宗教についてもそう言ってたかもしれないが、確認していない)。

だからこの作品の冒頭で、捨てられていた赤ん坊を、ホームレスたちは、なにも考えずに拾い上げる。
季節はクリスマス。もちろん冒頭は教会の場面で始まっていた。つまり、ホームレスたちは、イエスの誕生日(クリスマス)に、もう一人の赤ん坊を宿命的に引き受けた、あるいは偶然的に「選び取った」のである。これは、信仰の道に踏み出し、である。多くの宗教から、「イエス」 を子として選び取り、即、拾って育てた、のである。

選び取られる偶然、それが宗教の本質なのではないだろうか。そのことを、作品中の実に不自然な偶然の連発は示しているのだろう。

そういえば、主人公が拾ってきた捨て猫の名前も「エンジェル」だった。
そして再び言えば、これは「ゴッドファーザーズ」の物語だ。このタイトルは、信仰の物語(「ゴッド」)と家族の物語(「捨て子」と「ファーザーズ」)を、三位一体的に結合しているのである。

だからこそ、この物語に重ねて描かれている一見あほらしい「偶然」群は、「奇跡」としてみなされねばならない。
(そう考えてみれば、一見平板な物語展開に苦痛を覚えた人も、少しは楽しめるのではないだろうか)。

2009年2月14日土曜日

黒澤明の『生きる』:私たちが映画に出演している!!

この映画、ただ単に「今を生きろ」ってメッセージを発しているわけじゃない。 
むしろ逆で、「おまえらこの映画見たって、ちっとも人生変わらねぇんだろ。ダメな奴ら」って黒沢の声が私の耳には聞こえてくる気がする。 
物語は、主人公が死んじゃっておしまい、ではない。葬式の場面がえんえんと続く。その理由を考えなければならない。
葬儀では、主人公の同僚が、生前の主人公の働きぶりを振り返って、あれこれと議論して、最終的には「よし、オレも生まれ変わろう」と口々に絶叫する。
さて、この同僚たちの姿が、ちょうどこの映画を見ている私たちの姿でもあるところがミソなわけだ。主人公の生と死を目撃したのは、同僚と、そして私たちだ。この映画を見た私たちが、もしも「よし、オレもがんばろう」と薄っぺらな決意したとする。その瞬間、私たちは市役所の人々と重なり合ってしまう。
そんな私たちを、黒沢は映画の最後で突き放す。結末では、主人公の生き様がほとんど周囲の人間を変化させなかったことが描かれる。つまり黒沢は、この映画「生きる」を見た私たちが映画を見終わればすぐに普通の日常に戻ってだらだらと日々を送ることを見越しているわけだ。彼は、いかに死を自分の問題として捉えることが難しいかを知っている。
 
カミュは「人々がいかに死を知らぬようにして生きているか、いくら驚いても驚き足りない」みたいなことを『シジフォスの神話』で書いてた(ような気がする)。これは古いテーマで、プラトンなんかも「死について考えることが全ての哲学の始まりだ」と言っていた(ような気がするが保証は出来ない)。 

ただ、そんなことは誰でも知っている。そうであっても、多くの人々にとって死とは、いつまでたっても他人事でしかない。私たちが本当の意味で「生きる」には、ガンの告知や肉親の死などで、がつんと「死」というヤツに殴られるしかないのだろうか。そういう目覚めの一発的な破壊力は、映画にはないのだろうか。こんな疑問を黒沢は抱えていたんじゃないだろうか。 

2009年2月12日木曜日

鉄コン筋クリート:最後にリンゴが映っているよ

リンゴに目に落下。 
こりゃ、エデンの園の裏返しの物語なんだろう。 そもそも監督の名前マイケル・アリアスも聖書的で、「別名天使」と読み解くこともできる。マイケルは「ミカエル」。つまり、悪魔と戦う天使。アリアスは英語で「別名」(発音は「エイリアス」)って意味だ。ただ、今ちょっとグーグルしてみたら、"alias"じゃなくて"Arias"という名前のようだ。これは本名じゃないな、賭けてもいい(笑) 映画の中でわけもなく「バビロニア」がどうのとか差し挟まれているのもそういうことだろう。

このアニメのクロという人物が、「救世主」として描かれていることは、手に傷が残っていることが示している。あれは「スティグマータ」、聖なる傷なわけだ。スティグマータとは、たとえばスペインとかポルトガルとか南米とかで「おーっ、おれの手のひらから血が流れてきた!おれはキリストの生まれ変わりだ!」的な、よくあるとんでもニュースでおなじみの傷のこと。もちろんこの映画では、それは聖なるものではなく裏返しの黒い意味をもつ傷だけれど。
 
物語の最後は、クロとシロが「楽園」みたいなビーチにいるのだが、そこでクロが「落下」している。いや、最後だけでなく、この映画では、「落下」が執拗に描かれている。物語が始まって間もなく、バスの屋根の上からシロがぼとんと背中から地面に落ちる異様な様子を、忘れる人はいないだろう。その後も、やたらと飛び降りたり、墜落したりする。

落下、fallとは、創世記の「堕落」のこと。私はこういう定型的な解釈は普通は嫌いだけど、やはりこの作品ではそのことが意識されていることは間違いないと思う。それは、映画の最後に映し出されている、木の札に描かれたリンゴの絵がはっきり示しているから。あれは、エデンの園の禁断の実(リンゴ)なのだろう。しかし、この物語の中では、リンゴの札の下から、シロが植えたリンゴの種が芽を吹き始める。そこで終わり。

ようするに、聖書ではリンゴは人間に罪をもたらした根源だけれど、この映画では、それを裏返すような感じでリンゴが使われている。罪を洗い清めるような。クロをシロくするような。
だから、かれらの「落下」も、普通の下方向への落下ではなくて、その裏返しである可能性もある。つまり、飛翔ということ。そういえば、クロとシロが、二人で飛行機に乗りたいって言ってたのも、そういうことだろう。飛び立ちたいのだ。落ちつつも。

一見反対のものは、お互いがお互いを構成している、ということだろう。右と左、天と地、シロとクロ。
だから罪があって初めて救いがある。落下があって飛翔がある。言い換えれば、罪や落下やクロを切り捨てた世界なんて成り立つはずがない。

そしてなにより、このアニメを貫いているのは「目」である。登場人物たちの目が大写しになるだけじゃなくて、最後のビーチの場面で、シロはサンゴで作った大きな「目」の中にいる。目とはもちろん神のこと。ギャツビーの眼鏡屋の看板もそうだし、メイソンの目のシンボルもそうだけど。だから結局、人間を罪の意識に絡め取っておく目の呪縛から、シロとクロは解放されるのだろうか、というのがこの作品が突きつけてくる大きな問題のように思う。

この結末に答えはある。というのも、結末の状況が、作品全体の未来的縮図になっているからだ。作品の舞台は、ニューヨークみたいな川の中州に出来た街だった。その街全体がどきどき俯瞰的に映し出されていたけれど、それが奇妙に目玉の形をしていたことにみんな気づいていたはずだ。だから、最後にシロも目玉の中にいるのだ。街の建物の色遣いもピンクとか緑とかド派手だったが、あれはサンゴの色なのだろう。シロが最後に作っている目玉もサンゴを材料にしている。

しかし、最後の「目」は、あの街の巨大な目の裏返しなのだろう。金魚鉢が割れて死んでしまったあの金魚とは対照的に、海を泳ぐクロの姿がそれを暗示している。つまり、最後のサンゴの目は、二人を断罪する神の目を裏返したみたいなもので、二人を解き放つ目なのだろう。だからあの「イクトゥス」は、あんなに気持ちよさそうに泳いでいたのだ。そんな感じの物語の幕切れだった。

二十日鼠と人間:農園主の一言が全てを語る

この映画(原作はスタインベックの小説)の最後で、レニーという大男が死ぬ。というか、親友ジョージに撃ち殺される。
ここで必要なのは、レニーがかわいそうとかいうことじゃなくて、どうしてジョージがレニーを撃ち殺さなければならなかったのか、ちょっと考えてみることだ。

このラストシーンに至るまで、一体何匹(何人)殺されていたのか思い出してみると面白いことに気づくだろう。
しかし、それはめんどくさいので、とりあえずレニー(大男)にしぼってみると、彼には「好きなものをひたすらなでる」というクセがあった。なでてなでて、その挙げ句に「なで殺して」しまう。かわいい子犬をもらって、なで殺す。農園の奥さんの髪の毛をなでていて、結局、彼女を殺してしまう。

さてここで、最後にレニーを殺したのは誰だったのか、思い出してみたい。
もちろんジョージが殺したのだ。なぜ殺してしまったのか?答えは簡単である。ジョージはレニーを「なで」すぎていたのだ。かわいがりすぎていたのである。

この物語で、おそらく一番大事な台詞は、二人が農場についたときに農場の主人が疑いの目でジョージを見ながら、

「人のためにこんなにしてやるやつをオレは見たことがねぇ」

と言うところだろう。要するに、農園主から見れば、ジョージはレニーを「かわいがりすぎていて怪しい」わけだ。ジョージはレニーをなですぎている。かわいがりすぎて、その挙げ句に最後にああいうことになってしまう。なですぎていろんなものを殺してしまうレニーと、結局、ジョージは同じだったわけだ。

二人は同じ罪を犯していた。

こう書くと、たぶん、彼らは労働者であって、貧しい階級を作り出した社会を断罪すべきだ、というような反論があるのだろうが、この映画に関しては、それは当たっていない。というのも、この映画には農園主の息子(つまり、二人を雇っている側)が描かれていて、彼も結局、レニー的な存在だからだ。農園主の息子は、妻を「なでる」ために、自分の右手にオイルをぬって、やわらかく保っていたのだった。しかし、妻は明らかに夫を愛していない。なでられて幸せではない。そして最終的には、彼女は夫ではなくレニーになで殺される。

貧乏でも金持ちでも、つまり誰でも、「うまくなでられない」。自分の犬を撃ち殺されたおじいさんが片手を失っているのも、農園主の息子がレニーに手を握りつぶされるのも、そういうことなんだろう。みんな「うまくなでられない」人間たちなわけだ。

映画の舞台は1930年代、20年代末のバブル崩壊後の大不況の時代である。しかし、そのような遠い目でこの映画を見ることは、だから、間違っていると思う。貧乏でも金持ちでも、昔の人でも今の人でも、大男でも小男でも、そしておそらく私たち全員も、人をうまく「なでる」ことは難しい。
どうしたら「ちょうどよく愛する」ことは可能なのだろうか。そんなことはそもそも人間には許されていないのだろうか。どんなによい意図を持っていても、なぜか最後はうまくいかない。人間って、ろくなものではないですな、ははは。
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ところで先日、爆笑問題と精神科医の齋藤環との対談で、「愛は負けても親切は勝つ」という言葉が話題になっていた。齋藤の臨床のモットーだという。愛は「諸刃の剣過ぎて、ちょっと治療には使えない」。だから、「親切」がちょうどいいと。

そういえば、何年か前には... in the end, only kindness matters ... と繰り返す歌が流行っていたな。(この歌自体はすごく政治的にも聞こえるので好きになれないが、始まりの一節we are all okayというところはグッとくる)。