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2014年4月17日木曜日

飢餓海峡:金は人の業、花は神の業

画面に不思議なものが映っていた。酒をつぐとっくりに、無造作に札束が差し込まれる。丸められたお札がとっくりの細い口から扇状に開いておかれている様子は、花瓶に挿された花のようだ。そのまま、お札の花は棚の一番上に置かれる。

その金の異様さはそれだけではない。それは突然映画の中に現れたのだった。物語の筋とは何の脈絡もなくその金は、飲み屋で働く女(八重)に押しつけれた。男が店に現れ、こないだは兄貴が世話になった、などといいながら八重に渡したのだ。八重も、さらに映画を見ている私にも全く訳が分からない。困惑した八重も店の女主人も、その金には手を付けない。

この世の誰にも属さないという点で、とっくりに花開いた札束はいわばこの映画の中の棚に供えられたように見える。祭壇に供えられた花が、この世の誰のものでもなく、あの世に向けられたもののように。

花ではなく、金が供えられたところに、この映画の核心がある。

八重と主人公の男(犬飼)の出会いは、青森の恐山の麓だった。犬飼は、大金を懐に津軽海峡をボートで渡り切ったところで、飢えに苦しんでいる。そこで、民家の軒先に干してあったトウモロコシにかぶりつく。ふと家の中を覗くと、恐山のイタコが、死者の声を語っている。行く道もない、戻る道もない、と。

それは、偶然にも八重の実家だった。この後すぐに、犬飼は八重と出会い、八重からおにぎりを二つもらって飢えをしのぐ。そのまま犬飼は、八重の働く「花屋」(売春宿の隠語)で一夜を過ごし、そのいわば代償として札束を新聞にくるんで、八重にあげてしまう。

これが、犬飼と八重の(幸福な)悲劇――というのも、後に犬飼に殺される八重は、実に幸せそうな顔を一瞬見せたからだ――の始まりだった。そこには、「花」と「金」の交換が描かれていたのである。

花を捧げるか、金を捧げるか。恐山の麓で、そして、犬飼が目撃した青函連絡船の遭難事故の悲劇の裏で、このあと花と金のドラマが繰り広げられることになる。

犬飼を追う老刑事も、赤貧の生活を送っていた。二人の息子は、芋をとったとられたでケンカをしているほどだ。その息子たちが成人したころ、ふたたび老刑事が犬飼を追って、函館から旅立とうとする。そのとき、かつて飢えていた息子が、今なお貧乏な父に、なけなしの金を差し出す。そして、食卓の上にあった何かに食いつくのである。画面でははっきり分からないが、その食べ方からして、トウモロコシであることはまちがいない。こうして私たちは、飢えた犬飼がかぶりついたトウモロコシと金のドラマが、老刑事の家庭においても小さく演じられていることに気付く。

いや、老刑事の家庭だけではない。社会もまた飢えていた。その後、実業家として成功した犬飼は、それゆえに多額の寄付をする。正確には、刑余者の更正事業のためだ。この金もまた、死者を弔うためなのだった。犬飼はかつて二人の刑余者の命を奪っていたからだ。しかし、この金の「お供え」が裏目に出る。

犬飼の多額の寄付を報じた新聞記事を八重が読み、犬飼を追ってくる。かつて自分に「供え」られた金に対して、礼を言うためだった。過去の亡霊のように現れた八重を、犬飼は殺してしまうわけだが、この罪の代償を犬飼はどうやって支払えばいいのだろうか。一度は女に、そして二人の刑余者に、金を捧げれば捧げるほど、犬飼は苦境に陥った。どうも、金では支払えないようだ。

一つの答えを映画の結末は示している。すでに逮捕されている犬飼は、刑事に頼み込んで函館へと連れて行ってもらう。その途中、犬飼の乗った青函連絡船からは、あの恐山が見える。そのとき、八重の故郷の海へ、犬飼は菊の花を胸に抱いて身を投げる。自分が殺した女に、こんどは金ではなく花をお供えするために。


そのとき犬飼の耳には、死んだ女の声が聞こえていたのかもしれない。行く道もない、帰る道もない、と。津軽海峡を渡って北海道へと行く道、いや戻る道は、そこでふつりと途絶え、もう一つの道を男に開いたに違いない。