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2018年7月5日木曜日

『秋刀魚の味』――サンマって漢字で書けなくても味は分かりますよね

妻に先立たれた男はどうすればいいのか。この映画は、そんな問題を抱えた二人の男を描いている。一人は主人公の平山(笠智衆)。もう一人は平山の旧制中学時代の恩師(東野英治郎)で「ひょうたん」と呼ばれる老人。この二人は、一つの深い喪失感(妻の死)に対して、対照的な行動をとる。

二人にはそれぞれ娘がいる。「ひょうたん」は娘を嫁に出さず、もう40を過ぎたと思われる娘と暮らしている。つまり、「妻に死なれてしまった」という問題を、娘を使って解いてしまったのである。ひょうたんはそのことを悔いて「娘をつい便利に使ってしまった」「娘を家内の代わりにして、ついやりそびれた」と嘆く。一方、平山には24才の娘ミチコがいて、物語の初めでは父娘ともに結婚にはまだ早いと思っていたのだが、結婚を勧める友人のアドバイスが効いて、物語はミチコの結婚で締めくくられる。そしてその友人が言う――「おまえ、ひょうたんにならなくてよかったよ」。

だからこの映画は、「与えよ」と主張しているようにも見える。娘をほかの男に与えなかったひょうたんと、与えた平山。

たしかに、映画の細部において、ひょうたんが「もらってばかりの人(与えない人)」であることは繰り返し描かれている。宴会の席では酒をついでもらってがつがつ食べた挙げ句、土産にウィスキーをもらい、後日は教え子たちから2万円までもらっている。金を持参した平山に対し、一応ひょうたんは酒や食事を勧めたりするものの、結局、映画の中でひょうたんが(お礼の言葉以外)誰かに何かを与える場面は一つもなかったと思う。拾った新聞を読んでいる人物として初登場したひょうたんは、「もらう人」であり続けた。

一方、平山は一貫して「与える人」として描かれている。家にドーナツがあれば自分で食わずに息子に与え、近く結婚する部下の女性には封筒にお札を入れて渡す。冷蔵庫を欲しがる息子幸一(佐田啓二)には5万円与え、先述の通りひょうたんには2万円与えた、というか、ほとんど押しつけた。

この「無理にでも押しつける」という点でとても興味深い人物がもう一人いる。幸一の同僚、三浦だ。幸一の妻が三浦を「押し売り」と的確に表現している通り、三浦はゴルフクラブを執拗に幸一に売りつける。幸一が何度か断ったにもかかわらず、ある日曜日、三浦はゴルフクラブをもって幸一の家に押しかけてくる。そして幸一の妻が断っているのにもめげず、一括払いでなくてもいい、月賦でいいと押し通し、最後は妻が折れるのだった。

この「無理にでも与える」三浦は、「もらってばかりの人」の逆、「もらえない人」としても描かれている。売りつける口実かもしれないが、ゴルフクラブは三浦自身が欲しかったもので、金がなくて手に入れられなかった、という。また、ミチコとの縁談を持ちかけられたときも、本当はミチコを好きで嫁にしたかったが、今は既につきあっている人がいるからもらえない、という。このようにこの映画は、平山や「ひょうたん」の陰で、三浦という「ひょうたん」のアンチテーゼであり、かつ、平山をデフォルメした人物を描いていたようだ。「受け取る側の意思に関わらず、押しつけていく」三浦は、平山の後の決断――娘をほかの男に与える(この映画では、相手の男の気持ちは全く問題にされない)――を強調しながら先取りしている男であり、だからこそミチコが惚れるほどのいい男として描かれているのだろう。

ところで、この映画のタイトルはなぜ「秋刀魚の味」なのだろうか。

その問いにはひょうたんが答えてくれていたように思う。宴会で、茶碗蒸しを食べているひょうたんは、自分が口にしている魚の味を知らない。平山たちにそれがハモだと教えられると、ひょうたんは漢文の先生なので漢字でどう書くかを説明し出す――「さかなへんに豊」。味は知らなかったくせに漢字だけは知っているのである。ひょうたんは、魚に関しては知識はあるが経験はないのだ。

一方、サンマは漢字で書けるかどうかは別にしても、その味を知らない日本人はいないだろう。そして、(今の世の中ではなく)この映画が描く世界の中では、娘はいつか結婚していなくなる、ということを知らない人もいない。そんなことはひょうたんでも知っていた。しかし、ひょうたんはいつか娘を嫁に出さねばならないと知っていたのに、それを知識だけにとどめ、自分自身が味わうことはなかった。その意味で、ひょうたんは鱧だけでなく秋刀魚の味さえ知らなかったのである。

つまりこの映画は、恩師が経験することを利己的に避けた「秋刀魚の味」(娘を嫁にやる経験)を、平山が級友たちと一緒に味わい尽くす、という物語なのだった。

しかし、である。サンマを味わって、それですべてOKだ、ということにはならない。映画の最後、「与えきった」平山はどうなっただろうか。たしかに娘の結婚に関しては「もらってばかり」のひょうたんのようにはならずに済んだ。でも結局、平山も恩師と同じく孤独なのである、敗北を味わうのである。娘の結婚式も、彼にとっては形を変えた「葬式」のようなものだった。「あの戦争に勝っていたら」とむなしく夢想するかつての部下とは違って、平山は覚悟して最後の喪失を受け入れるしかないのであろう。

娘の結婚式の後、平山はバーで酒を飲む。死んだ妻に似た女に酒をついでもらって。だが、「似た女」は平山が抱えている二つの喪失(妻の死、娘の結婚)のすべてを癒やしてくれはしない。家に帰ると、平山は一人、自分でお茶をつぐ。会社の部下がお茶の支度をしてくれていたオープニングの場面から、最後はここに行き着いたのである。ケトルは自分の手で持つべし。自分のことは自分でやらねばならない。この真実もまた、この映画が描いた「秋刀魚の味」の一つなのだろう。

(こんなふうにこの映画を見てしまうのは、平山が劇的に到達したこの真実が、我が家ではとうの昔から当たり前の掟になっているからだろうか。)