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2009年2月12日木曜日

二十日鼠と人間:農園主の一言が全てを語る

この映画(原作はスタインベックの小説)の最後で、レニーという大男が死ぬ。というか、親友ジョージに撃ち殺される。
ここで必要なのは、レニーがかわいそうとかいうことじゃなくて、どうしてジョージがレニーを撃ち殺さなければならなかったのか、ちょっと考えてみることだ。

このラストシーンに至るまで、一体何匹(何人)殺されていたのか思い出してみると面白いことに気づくだろう。
しかし、それはめんどくさいので、とりあえずレニー(大男)にしぼってみると、彼には「好きなものをひたすらなでる」というクセがあった。なでてなでて、その挙げ句に「なで殺して」しまう。かわいい子犬をもらって、なで殺す。農園の奥さんの髪の毛をなでていて、結局、彼女を殺してしまう。

さてここで、最後にレニーを殺したのは誰だったのか、思い出してみたい。
もちろんジョージが殺したのだ。なぜ殺してしまったのか?答えは簡単である。ジョージはレニーを「なで」すぎていたのだ。かわいがりすぎていたのである。

この物語で、おそらく一番大事な台詞は、二人が農場についたときに農場の主人が疑いの目でジョージを見ながら、

「人のためにこんなにしてやるやつをオレは見たことがねぇ」

と言うところだろう。要するに、農園主から見れば、ジョージはレニーを「かわいがりすぎていて怪しい」わけだ。ジョージはレニーをなですぎている。かわいがりすぎて、その挙げ句に最後にああいうことになってしまう。なですぎていろんなものを殺してしまうレニーと、結局、ジョージは同じだったわけだ。

二人は同じ罪を犯していた。

こう書くと、たぶん、彼らは労働者であって、貧しい階級を作り出した社会を断罪すべきだ、というような反論があるのだろうが、この映画に関しては、それは当たっていない。というのも、この映画には農園主の息子(つまり、二人を雇っている側)が描かれていて、彼も結局、レニー的な存在だからだ。農園主の息子は、妻を「なでる」ために、自分の右手にオイルをぬって、やわらかく保っていたのだった。しかし、妻は明らかに夫を愛していない。なでられて幸せではない。そして最終的には、彼女は夫ではなくレニーになで殺される。

貧乏でも金持ちでも、つまり誰でも、「うまくなでられない」。自分の犬を撃ち殺されたおじいさんが片手を失っているのも、農園主の息子がレニーに手を握りつぶされるのも、そういうことなんだろう。みんな「うまくなでられない」人間たちなわけだ。

映画の舞台は1930年代、20年代末のバブル崩壊後の大不況の時代である。しかし、そのような遠い目でこの映画を見ることは、だから、間違っていると思う。貧乏でも金持ちでも、昔の人でも今の人でも、大男でも小男でも、そしておそらく私たち全員も、人をうまく「なでる」ことは難しい。
どうしたら「ちょうどよく愛する」ことは可能なのだろうか。そんなことはそもそも人間には許されていないのだろうか。どんなによい意図を持っていても、なぜか最後はうまくいかない。人間って、ろくなものではないですな、ははは。
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ところで先日、爆笑問題と精神科医の齋藤環との対談で、「愛は負けても親切は勝つ」という言葉が話題になっていた。齋藤の臨床のモットーだという。愛は「諸刃の剣過ぎて、ちょっと治療には使えない」。だから、「親切」がちょうどいいと。

そういえば、何年か前には... in the end, only kindness matters ... と繰り返す歌が流行っていたな。(この歌自体はすごく政治的にも聞こえるので好きになれないが、始まりの一節we are all okayというところはグッとくる)。

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