このブログを検索

2014年1月28日火曜日

東京家族: 見守っている人々

テレビでやっているのを観た。途中、役者の演技や台詞やカメラアングルや全てから小津安二郎の『東京物語』への愛がちょっとやり過ぎなほどあふれていて、いじわるな私にはどうしてもパロディーに見えてしまい、のめり込んで観ることはできなかった。
 それでも、いいなぁと思ったのは、画面の端々に映っていた人々のお節介ぶりで、自分のことを誰かが見ている/覗いている/見守ってくれている感じが良く伝わってきたことだ。

横浜の海岸に腰掛けて、老夫婦が話をしている。夫(橋爪功)が立ち上がり、妻(吉行和子)が後について歩き出す。しかし、すぐに気分が悪くなってしゃがみ込んでしまう。このとき、橋爪功が駆け寄って来たのは当然なのだが、面白かったのは、その様子を遊歩道や近くの建物の庭から何人かの人が見ていたことだ。遠すぎてその表情は画面に映っていない。だが、そのような赤の他人たちが心配そうにしていることは間違いなく伝わってきた。

あるいは、ある小料理屋で橋爪が旧友と悪酔いする場面でも、カウンターの端から二人のことをちらちら見ているサラリーマンの姿が映し出されている。その視線が共感であれ敵意であれ、何を意味しているにせよ、少なくとも酔いつぶれている老人二人に無関心でないことだけは確かだろう。

いや、その視線は無関心であってもいいのかも知れない。吉行と息子(妻夫木聡)の婚約者(蒼井優)が、妻夫木の部屋で二人っきりになっている場面でも、アパートのドアが開け放たれていて、その向こうでは、別の部屋の窓が開いていて、人の姿がちらちらと見えている。掃除でもしているのだろうか。画面からでは何をやっているか分からないし、その人物が吉行と蒼井のことを見つめているわけでもない。しかし、風通しが良くて、さわやかな場面なのだ。

いや、その視線は生きている人からのものでなくてもいいのかも知れない。映画の結末、吉行は亡くなり、遺骨となって故郷に戻った。海が見渡せる実家の茶の間では、橋爪が蒼井と向き合っている。それまで蒼井は、自分に対する橋爪の態度がよそよそしく冷たいと感じていた。しかし、ここで橋爪は蒼井に話しかける。そして礼を言う。蒼井のことをとても気に入っていた妻の気持ちを、このとき橋爪は理解出来るようになっていたわけである。こうして蒼井を通して、老夫婦は互いの絆を確かめ合った。たとえ、片割れが既に死んでいたとしても。だからこのとき、やはり画面の端には、吉行の遺影が映っている。死者からの眼差しが、橋爪と蒼井に注がれている。これはただの慰めに満ちた比喩ではない。現実に、あの瞬間、亡き妻の気持ちが、蒼井を媒介に、夫へと伝わっていたのだから。