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2009年5月30日土曜日

金子みすゞの「わたしと小鳥とすずと」の読み方

今回も映画でなくてすみません!

先日、教室の学生たちに手を挙げさせてみたら、全員が金子みすゞの詩「わたしと小鳥とすずと」を知っていた。小学校の国語や道徳で習ったのだという。だいたいこんな詩だ。

 わたしが両手をひろげても
 お空はちっともとべないが

 とべる小鳥はわたしのように
 地面(地べた)をはやくは走れない
 
 (中略)

 すずと、ことりと、それからわたし

 みんなちがって みんないい

ネットで検索すれば多くの先生たちがこの詩を使った授業を紹介していることがわかる。私の学生たちも小学生の頃そのような授業を受けていた。「一人一人を大切にする心を身につけよう」みたいな個性礼賛的な読まれ方をしている、という。もっともなことだ。この詩の最後の一行には「みんなちがって、みんないい」とある。

しかし、ほんとうに個性万歳、みたいな詩なのだろうか。

ここで金子みすゞには「循環グセ」があったことを思い出してみたい。たとえば、「木」という詩では、四季の中で変化してしていく木について書いているのだけれど、金子は非常に奇妙な表現を使っている。


 お花が散って
 実が熟れて、
 その実が落ちて
 葉が落ちて、

 (中略)

 そうして何べん
 まわったら、
 この木は御用が
 すむかしら。

誰でも「まわったら」という表現が気になるだろう。どうやら金子の目には、木が「まわる」ものとして映っているのである。それは木が物理的に回転しているということではなくて、四季という一つの「循環」の中に存在しているということだろう。

この「循環」は、第一行「お花が散って」がさりげなく示している。
ヘボ詩人なら「お花がさいて」と書き始めただろう。ヘボ詩人は、生物は生まれそして死んでいく、という直線的な世界観で生きているからだ。しかし、金子は「死」を一番先におく。花が散る、葉が落ちる。そう書いてから、次に「芽が出て花が咲く」と書く。死んで生まれる。

この逆転が可能になるのは、金子が時間を直線ではなく円としてとらえているからである。生と死が円の上の二点なら、生物たちは、生→死→生→死、をひたすら繰り返すことになる。つまり、円上のある地点では、死んで生まれるという「逆転」が可能になる。(本当は「逆転」でも何でもない。それが「逆転」に見えてしまうのは、私たちの多くが直線的な時間観を持って生きているからである)。誕生よりも死が先にあるという金子の世界観は、金子が時間を「循環」する輪としてみなしているからこそなのだ。

このような金子の循環グセについては別の本(東大入試なんちゃらという本)で他の詩も参照しながら書いたので、詳しくは、直ちに右側のアマゾンのリンクをクリックして、あまり深く考えずに購入していただきたい(笑)

さて、この循環癖を踏まえて、「わたしと小鳥とすずと」の「みんなちがって、みんないい」を読んでみてはどうだろうか。つまり、この詩は一つの循環の中の三者について歌っているのではないか、と考えてみたい。いわば「打順」の詩ではないのか、と。ためしに、こう書き換えてみたらどうだろう。

松井が右手をひねっても、
ボールはちっとも曲がらないが、
曲がる松坂は松井のように、
ボールを遠くに飛ばせない。

松井がからだをゆすっても、
はやくは走れないけれど、
走れるイチローは松井のように、
たくさんホームランは打てないよ。

イチローと、松坂と、それから松井、
みんなちがって、みんないい。

この詩の出来損ないを読んで、ここには「個性を大切にしよう」というメッセージがある、という感じにまとめてしまうと、半分ぐらいしか読んだことにならない。

これは野球の詩(みたいなもの)である。野球選手には、それぞれのポジションがあり、それぞれの打順がある。各選手の特性を「個性」と呼ぶのは不正確である。むしろ大切なのは各選手の異なった「役割」なのである。打順という一つの「循環」の中では、ある特性を持つことで選手が得るのは、たんに気ままに振る舞う自由ではなく、個性に応じた「役割」なのである。

循環癖を持つ金子が書いた「わたしと小鳥とすずと」も、個性ではなく、役割のことを言っている。私はそう思う。

単独で存在し、ばらばらの方向を向くことを許すことにもなる「個性」を礼賛しているのではなく、個々の存在は、大きな「循環」の中で結びついている。その中でそれぞれが異なった役割を担っているんだなぁ、という感慨を金子は描いているのだろう。あらゆる生物はつながっていて、循環していて、(有名な「大漁」も「積もった雪」もつながりについての詩だ)その関係性はなかなか目にはみえないけれども、みえなくてもあるんだよ、ということだ。そんな見えにくいつながりを、三番目に登場する「すず」は示しているのかもしれない。ついつい生き物ですらない「すず」をもってきたのは、「すず」が「わたし」である金子み「すゞ」とつながっていることを、金子が心のどこかで感じ取っていたからだろう。

金子は、「葉が落ちて、それから芽が出て、花が咲く」と書いた。野球でも、自分が犠牲バントで「死んで」、別の走者を進めて、得点する。「わたしと小鳥とすずと」も、それぞれが個性に応じた「役割」を担うことで、世界全体が丸く収まっていることを示しているように思う。

最近、自分の「個性」という幻想を真に受けた若者たちが、会社で「役割」を担うことを嫌って、すぐに退社していくという。いや、私は世相を嘆いているのではなく、自分自身、循環あるいは「見えない結びつき」に気づくのに時間がかかりすぎたと反省をしているのである。