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2013年7月26日金曜日

「風立ちぬ」――すべては風のおかげさま


どうやって風という目に見えないものをつかむか、そこが難しい。

「風立ちぬ」というタイトルは、ヴァレリーの詩「風が起きた、生きてみなければならない」がもとになっている。その詩の通り、風(空気)は人を生へと突き動かす言わば命の源なのだが、しかし、目には見えないし、手でつかむことも出来ない。

物語は零戦を開発する「二郎」と、結核を患う妻「菜穂子」の二つの物語が、つながり合うことで成り立っている。

題名から明らかだが、この二つは「風」(空気)がつなげてくれたようだ。目に見えないもの(空気)を捉えることの困難さが、二人が格闘している飛行機と結核の根底にあるのだから。

空気を捕まえることの難しさは、物語の初めから強調されている。そこでは、少年時の二郎が夢を見ていた。家の屋根から飛行機で空へ羽ばたくのだが、空に現れた邪悪な黒いものに撃ち落とされ、地面へと墜落していく。それから幾度か二郎は同じように墜落する夢を見ている。

映画を見終えて振り返ってみれば、空気を捕らえ損ねる悪夢の数々は、まるで菜穗子の結核を不気味に予告していたようだ。空気をとらえようとする菜穂子の肺をむしばむ、黒い邪悪な病巣のことを。

だが元々、風を見事につかんで見せたのは、後に妻になる菜穂子だった。
二人の出会いの場面だ。汽車のデッキでヴァレリーの詩を読んでいた二郎は、帽子を飛ばされてしまう。それを見事につかんだのが、菜穂子だ。そのとき、二人を結びつけた(つなげた)のは、一見、帽子だ。だが、そうではない。風なのだ。風は目に見えない。飛ばされた帽子は、見えない風を可視化する道具に過ぎない。だから二人はそこでヴァレリーの「風」の詩を口にする。

後に二人が軽井沢(?)で再会する場面でも、風に飛ばされたパラソルが二人を結びつける。それはもちろん、パラソルではなく風の手柄なのだ。
帽子やパラソルだけでなく、紙飛行機もまた、体調を崩した菜穂子と二郎の間を取り持ったりもする。「風」あっての二人なのである。

その風に舞う紙飛行機が教えてくれるのは、二郎のキャリアである飛行機もまた、結局この映画にとっては、風を可視化するものに過ぎない、ということだろう。

映画の最後、空を舞う無数の零戦の姿が描かれるとき、それは飛行機というより、私の目には桜吹雪に見えた。風に舞う桜の花びらもまた、一種の帽子であり、パラソルなのだから、飛行機もまたそうなのだろう。

二郎と菜穂子が結婚式を挙げる場面では、一見、雪が降っているように見える。しかし、よく見ると、それは雪というより紙片だった。あるいは紙吹雪だった。つまり、風が吹いていることが表現されていたのである。

だからこの映画で、宮崎の意識では零戦を描きたかったのかもしれないが、彼の無意識ではそうではなかったようにも見える。それは、帽子やパラソルを描くことが主眼であるはずがないのと同様だ。飛行機を含め空を舞う数々の物体は、風という見えない生命の源を可視化し、あるいはそれを映画の中で宮崎がつかんで差し出すための方便にすぎないのかもしれない。

私たちは時々、目に見えないものは存在しないと勘違いすることがある。あるいは、自分がつかんだ何かいいものを、自分の力でつかみ取ったと思い上がることもある。しかし、おそらく私たちの人生で出くわすよいものとは、見えないなにものかが私たちのところまで運んできてくれたに違いないのである。私たちに出来るのは、それをきちんとキャッチすることなのだ。

だからこそ、菜穂子という死者から二郎に届く「メッセージ」は、映画の最後にささやかれたような「あなた、生きて」という直接的な願いであるはずがない。死者という見えないなにものかは、「生きて」という手に触れるような(帽子とかパラソルとか飛行機とかのような)この世的な通信はよこさないし、それは宮崎駿も承知していたはずだ。

(二郎の声優の声がぶっきらぼうでなければならなかった理由がここにある。二人の物語に観客が感情移入することを困難にする必要があった。観客が死者の言葉を、まるで生者の言葉のように「この世的」に受け取ることがないようにせねばならなかった。)

だから、最後の「あなた、生きて」という菜穗子の言葉を、私たちはヴァレリーの詩(「風が起きた、生きてみなければならない」)から逆算して、聞かねばならないのだろう。つまり、「生きて」ではなく「風が起きた」の方である。風が起きたことを私たちは見過ごすことなくキャッチせねばならない。映画のタイトルが「風立ちぬ」であるゆえんだ。

死者からの通信は、いわば風としてしか届かない。目に見えない、つかみどころのないものとして。しかし、飛行機の設計技師という「風をつかむ専門家」である二郎は、妻からの「起きた風」をきっとナイスキャッチすることだろう。

これは蛇足だが、この世的な通信(直接的メッセージ)ではないものとは、どのようなものなのか。それは、たぶん、「偶然の一致」として私たちに感知されるようなものではないだろうか。不思議な偶然の一致を、私たちはそのままうち捨てておく(キャッチしない)けれども、おそらくそこに、なにかがあるのではないだろうか。そう考え始めるのは、ある病の始まりかもしれないが、ただ宮崎駿もまた「堀越二郎」と「堀辰雄」の「掘」つながりという偶然の一致を見逃すことがなかったことは、忘れてはならないはずだ。
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追記2013年7月27日
こう書いてから丸一日も経っていない26日深夜、NHKで『僕の彼女を紹介します』という映画を観た。それは風と紙飛行機の物語だった。