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2009年3月11日水曜日

リアリズムの宿:リアルにへこむでかんわ(知多弁)

自分の人生も人から見たらつまらない人生に見えるんだろうなぁ、と思わせる映画。

この映画を作った山下監督は愛知県知多郡阿久比町出身。こう記憶しているのは、この人の別の映画で「柊祭」という名の文化祭が描かれていて、これってオレの高校の文化祭と同じ名前だなぁと思って、調べてみたことがあるから。どうやら我が半田高校のOBではなくて、となりの阿久比高校出身らしいが。

なんでこう書き始めたかというと、この映画の二人の主人公も、私と山下監督の関係に毛が生えた程度のつながりしかないからだ。共通の知り合いに誘われて鳥取県のとある駅に集合した二人。だが、肝心の友人は現れない。気まずい距離感のまま、二人は共通の趣味である映画作りの話で盛り上がるでもなく、暇つぶし的な旅をする。

旅は終始しっくりこない。何かが足りなかったり、何かが過剰だったりして、フィット感が全くない。三人集まるはずが一人足りない、二人の前に走り出てくる女にはブラジャーが足りない、釣りをしたら魚は釣れないが(不足)、別の釣り人に魚を高額で買わされる(過剰)。宿に持ち込んだ酒(過剰)は何者かに飲み干される(不足)。そば屋で飯を食おうとしたら、一人の分だけなかなかこない(不足)。二人を家に招待してくれた人は、部屋から姿を消し(不足)、その後、その人の家族で部屋はいっぱいになる(過剰)。そのあとたどり着いた安宿「森田屋」でも、味噌汁の量が異様に多く(過剰)、二人が帰るときには宿屋の人たちが出払っている(不足)。そもそも二人の内一人は女と一度も付き合ったことがなく(不足)、もう一方は6年も付き合っている(過剰)。とにかく、万事がぴったりかみ合わない。

ありがちだけれど、これは、映画作りをする二人についての映画である。小説に登場する小説家、漫画に登場する漫画家、というよくある仕掛け。この効果は、これもあたりまえだが、映画を外から見る視点が得られること。映画の中の「現実」を「これも映画に過ぎない」という外側の目で見ることになる。

だから、こういう映画を見ていると、ついつい自分の人生も外側から眺めることになる。この映画自体、じつに平凡すぎる人々の平凡な旅で、その途中で描かれる人々も、昼間からテレビを見ているようなくだらない日常を送っている。

だいたい舞台が鳥取(島根の右隣)なのだよ。私のいる札幌と、本州じゃないという点で完全に同じだ。

オードリー・ヘップバーンが王女様をやったり、ブルース・ウィルスがビルをぶっ壊したりするような別世界の映画の対極。ミッション・インポシブル的な映画が、自分の人生を忘れさせてくれる映画(文字通りインポシブルな世界)だとしたら、こちらは全く逆。いやでも自分の人生を思い出させる。

彼らは変な「旅」をしている。普通、旅とは日常から逃れるベクトルだろう。しかし彼らの旅は逆向きなわけだ。

唯一、この映画で平凡でないものが描かれているとしたら、それは、初対面の人との距離感だろう。近すぎるのだ。初対面の人が、自分の家に泊まれと言ってくれたり、魚を売りつけてきたり、だいいち、冬の浜辺で見ず知らずの女子高生が裸で駆け寄ってきたりする。しかも彼女は、このあと夜の女湯に二人の男を招き入れてくれたりもする。近すぎる。

しかし、この女の存在も、男にしては「平凡すぎる」妄想なのではないだろうか。全然リアルじゃない妄想上の女なのだろう。その証拠に、後にこの女は、財布がないのにバスに乗ってどこかに消えてしまう。

いずれにしても、世の中どこを探してもいない反リアルな女を通して、逆に現実をたたきつけてくる映画だ。こんな非現実な女の子のことを妄想する男たちの日常が照らし出され、それを見てる観客も、しょんぼりする。

オレの人生もよそから見たら、これぐらいくだらないものなんだろうなぁ、と。今日なんか、晩飯にカップ麺食ったもんなぁ。で、そのあとにこの映画をみたんだからな。

というわけで、阿久比町と半田市の感性はすれ違いましたとさ。