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2009年2月12日木曜日

鉄コン筋クリート:最後にリンゴが映っているよ

リンゴに目に落下。 
こりゃ、エデンの園の裏返しの物語なんだろう。 そもそも監督の名前マイケル・アリアスも聖書的で、「別名天使」と読み解くこともできる。マイケルは「ミカエル」。つまり、悪魔と戦う天使。アリアスは英語で「別名」(発音は「エイリアス」)って意味だ。ただ、今ちょっとグーグルしてみたら、"alias"じゃなくて"Arias"という名前のようだ。これは本名じゃないな、賭けてもいい(笑) 映画の中でわけもなく「バビロニア」がどうのとか差し挟まれているのもそういうことだろう。

このアニメのクロという人物が、「救世主」として描かれていることは、手に傷が残っていることが示している。あれは「スティグマータ」、聖なる傷なわけだ。スティグマータとは、たとえばスペインとかポルトガルとか南米とかで「おーっ、おれの手のひらから血が流れてきた!おれはキリストの生まれ変わりだ!」的な、よくあるとんでもニュースでおなじみの傷のこと。もちろんこの映画では、それは聖なるものではなく裏返しの黒い意味をもつ傷だけれど。
 
物語の最後は、クロとシロが「楽園」みたいなビーチにいるのだが、そこでクロが「落下」している。いや、最後だけでなく、この映画では、「落下」が執拗に描かれている。物語が始まって間もなく、バスの屋根の上からシロがぼとんと背中から地面に落ちる異様な様子を、忘れる人はいないだろう。その後も、やたらと飛び降りたり、墜落したりする。

落下、fallとは、創世記の「堕落」のこと。私はこういう定型的な解釈は普通は嫌いだけど、やはりこの作品ではそのことが意識されていることは間違いないと思う。それは、映画の最後に映し出されている、木の札に描かれたリンゴの絵がはっきり示しているから。あれは、エデンの園の禁断の実(リンゴ)なのだろう。しかし、この物語の中では、リンゴの札の下から、シロが植えたリンゴの種が芽を吹き始める。そこで終わり。

ようするに、聖書ではリンゴは人間に罪をもたらした根源だけれど、この映画では、それを裏返すような感じでリンゴが使われている。罪を洗い清めるような。クロをシロくするような。
だから、かれらの「落下」も、普通の下方向への落下ではなくて、その裏返しである可能性もある。つまり、飛翔ということ。そういえば、クロとシロが、二人で飛行機に乗りたいって言ってたのも、そういうことだろう。飛び立ちたいのだ。落ちつつも。

一見反対のものは、お互いがお互いを構成している、ということだろう。右と左、天と地、シロとクロ。
だから罪があって初めて救いがある。落下があって飛翔がある。言い換えれば、罪や落下やクロを切り捨てた世界なんて成り立つはずがない。

そしてなにより、このアニメを貫いているのは「目」である。登場人物たちの目が大写しになるだけじゃなくて、最後のビーチの場面で、シロはサンゴで作った大きな「目」の中にいる。目とはもちろん神のこと。ギャツビーの眼鏡屋の看板もそうだし、メイソンの目のシンボルもそうだけど。だから結局、人間を罪の意識に絡め取っておく目の呪縛から、シロとクロは解放されるのだろうか、というのがこの作品が突きつけてくる大きな問題のように思う。

この結末に答えはある。というのも、結末の状況が、作品全体の未来的縮図になっているからだ。作品の舞台は、ニューヨークみたいな川の中州に出来た街だった。その街全体がどきどき俯瞰的に映し出されていたけれど、それが奇妙に目玉の形をしていたことにみんな気づいていたはずだ。だから、最後にシロも目玉の中にいるのだ。街の建物の色遣いもピンクとか緑とかド派手だったが、あれはサンゴの色なのだろう。シロが最後に作っている目玉もサンゴを材料にしている。

しかし、最後の「目」は、あの街の巨大な目の裏返しなのだろう。金魚鉢が割れて死んでしまったあの金魚とは対照的に、海を泳ぐクロの姿がそれを暗示している。つまり、最後のサンゴの目は、二人を断罪する神の目を裏返したみたいなもので、二人を解き放つ目なのだろう。だからあの「イクトゥス」は、あんなに気持ちよさそうに泳いでいたのだ。そんな感じの物語の幕切れだった。

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