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2013年12月13日金曜日

Love Letter: なぜ「青い珊瑚礁」を歌って死んだのか

北海道に来てはや六年目、小樽を舞台にした映画『Love Letter』を遅ればせながら観た。(『ラストレター』はこちら

主人公(渡辺博子)の婚約者は、山で遭難して死んだ。当時の登山仲間たちは、なぜか「青い珊瑚礁」を口ずさむ癖を持っている。渡辺はその選曲を不思議に思う。実は、谷底に落ちた彼が、死ぬ前にその曲を歌っていたのだった。谷底から聞こえてくる彼の歌声を登山仲間たちは聞いていたのだ。しかしそれにしても、なぜ「青い珊瑚礁」なのか。それは仲間たちにも分からない。

だが、渡辺には分かったのかも知れない。

なぜなら「青い珊瑚礁」の話を聞いた直後、渡辺は「実は彼からプロポーズされていない」と登山仲間たちに打ち明けたからだ。内気な彼がなかなか切り出さないので、渡辺は自分から結婚してくださいと口にし、彼が頷いたのだという。

なぜ渡辺は、そのことを思い出したのか。それは「青い珊瑚礁」のせいではなかったのだろうか。

彼は死ぬ前にその曲を歌った。それは、松田聖子が流行っていた自分の中学生時代を彼が思い出していたからだろう。いや正確には、中学生の頃に自分が片思いしていた女の子、藤井樹のことを思い出しながら彼は死んだのだろう。転校して離ればなれになったあと、自分の恋も南の風に乗って届けと願った相手が、彼の最後の思いとなった。

ということは、彼の本当の気持ちは自分にではなく、ずっと中学時代の同級生に向いていたことを渡辺は直感したはずだ。だから彼は自分にプロポーズする決心がつかなかったのだ、と渡辺は心のどこかで気付いたのだろう。

こうして、渡辺は新しい恋に進んでいくことが可能になる。だから、渡辺と彼の恋物語は、それほど面白いものではない。死んだ彼はあまり自分のことを好きではなかったようだから、もう知らなーい、という割り切りが可能なので。

興味深いのは、彼に惚れられていた藤井樹の物語だ。映画の最後で、彼女は図書係の中学生たちから一冊の本を受け取る。そこに挟まれていたのは、中学時代の彼が図書カードの裏に描いた彼女のポートレイトだった。それはいわば、彼からの実に控えめな「告白」だった。彼女には中学時代にそれに気付くチャンスがあった。その本は元々、彼が彼女に手渡して、図書室に返してくれるよう頼んだものだったからだ。しかしその本に隠されていた「ラブレター」を彼女が知ることになったのは、もはや「青い珊瑚礁」がナツメロになりかけている頃だった。

こうして死者からの「ラブレター」を受け取ってしまった彼女は、これからどうすればいいのだろう? 失われた時間を、どうやって取り戻せばいいのだろう? そう私たちが問うよう、彼女の受け取ったプルーストの本のタイトル『失われた時を求めて』も誘っている。

この映画なりの答えは、彼女の名前にあるのかもしれない。映画のラストでやっと、彼の名前が彼女と同じ「藤井樹」であるという一見無理矢理の設定に、多少納得できるような気がする。これから彼女は、(彼が過去において経験したように)吹雪の中で死にそうになるだけでなく、(彼の未来がそうなるはずであった)ガラス職人の道を歩んでいくのかも知れない。なにしろ彼女は、ガラスの町小樽に住んでいるのだから。

中学の彼女に似ているから自分が選ばれたと気付いて不満に思う渡辺は、いわば「代役」になることを嫌った。一方、女藤井樹は、男藤井樹の代役、あるいは「双子」の片割れとして生きていくことを(そうとは意識していないだろうが)引き受ける。こうして、一人二役を演じた中山美穂を起点に、「代役」であることの表と裏が巧みに描かれていたように私には見えた。

ところで、偶然にしては出来すぎていることに、私は母校の作文コンテストの審査員として、来週ほぼ三十年ぶりに高校の図書室に行って、作業をすることになっています。不思議な縁です。

2013年10月31日木曜日

"Boys, be ambitious like this old man"の"this old man"とは誰のことか?

NHKの歴史秘話ヒストリア「クラークと教え子たちの北海道物語」を観た。

帰国するクラーク博士が別れ際に教え子たちへ言ったという"Boys, be ambitious"には知られざる続きがあった、と番組で紹介されていた。

私がその続きを聞いたのは、数年前に島松駅逓所を訪れたときだった。札幌を立ったクラークは、その日、千歳を目指していたという。札幌と千歳の中間点は島松沢。見送りに来た学生たちは、そこで引き返すことになった。そのときにクラークが別れの言葉を残したという。駅逓所で案内の仕事をしているご老人によると、その言葉とはBoys, be ambitious like this old manだったという。

番組でもその通り紹介されていたのだが、"this old man"とはクラーク自身を指している、としていたのには疑問が残った。

たぶん、それは中山久蔵のことを指していたのではないだろうか。

齢四十を過ぎた中山が島松村(恵庭市)に入植し、その後、本格的な稲作に成功したのが明治六年、クラークが来日する三年前のことだった。人生半ばを過ぎて全く新しい土地にやってきて、不可能であると考えられていたことを成功させて一旗揚げた中山は、実にambitiousな男としてクラークの目には映ったはずだ。

そして、帰国するクラークは、中山久蔵宅(現駅逓所)で食事をしたあと、あの言葉を発したのである。

だとすれば、クラークは農学校の学生たちに、中山久蔵を農業人として手本とせよ、という意味を込めて、Boys, be ambitious like this old manと言った、と解釈するのが自然なように思うのだが。

そう持ち上げられた中山が、クラークの英語を理解したかどうかは歴史の闇に埋もれたままでも良いのだが、"this old man"が中山である可能性が埋もれてしまっては、恵庭小学校に通った私としては残念で仕方ないのデス。
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追記:11月2日
もっと詳しくクラークと中山久蔵について書いているページを見つけました。"this old man"は中山久蔵であるかもしれないと述べられています。

2013年8月19日月曜日

あまちゃん:代役の物語

実家の寝室が暑くて眠れず、深夜諦めてテレビをつけたら『朝まであまテレビ』と称して、NHK朝ドラ『あまちゃん』の総集編をやっていた。おかげで、それまで断片的しにか知らなかったエピソードがつながった。それで今日(8月19日)の回を見て、このドラマは徹底的に代役の物語なのだな、と思った。

今日の回では、主人公アキの母(小泉今日子)の母親が倒れ、母は岩手の実家へ戻り、アキは東京で映画のオーディション会場へと向かう。そこで彼女は、一つの台詞を言うよう求められる。それは、「かあちゃん、親孝行できなくてごめんなさい」というものだった。一方、岩手の病院では、小泉今日子が母親に対して、複雑な思いを抱えたまま、母の手術が終わるのを待っている。おそらく、彼女には母親に言うべきことがある。でも、それを言うことが出来ない。ところが、東京では、自分の番が回ってきたアキが、「かあちゃん、親孝行できなくてごめんなさい」と叫ぶ。それはもう、オーディションのための台詞というよりは、小泉今日子の言うべき台詞をアキが代役で叫んでいるようにしか聞こえない。

だとすれば、このドラマの結末をこの時点で予想することができるように思う。

主人公がオーディションを受けている映画は、『潮騒のメモリー』。かつて母である小泉今日子が歌手鈴鹿ひろ美(薬師丸ひろ子)の代役として歌った同名の歌にちなんだ映画だった。若かった母は、薬師丸ひろ子の代わりに歌声だけ担当、決してアイドルとして人前に出ることは出来なかった。だから今度は、娘であるアキが、母自身の代役人生を映画の中で繰り返しつつ、さらにアキ自身が代役として母の夢を果たすことになる。つまり、映画の中では役の上で「代役」を与えられるアキが、なんらかの理由で主演女優が降板することによって自ら主役となる。そして、母がかなえられなかった表舞台に立つ夢(薬師丸ひろ子の代役として「潮騒のメモリー」を歌った母の夢)を『潮騒のメモリー』の主役として実現するのだろう。

しかし、おそらくそのとき母小泉今日子はもうこの世にはいない。(と同時に、アキ自身が赤ん坊を宿して「母」になるのかもしれない。)

このような代役人生は、もちろん、アキの母やアキに限ったことではないのだろうが。
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追記、さっき(9月16日夜)映画を見終えたら「あまちゃん」やってました。あーっ、みんな生きてる!めでたし。でも、いつからナレーションがアキの母(小泉)になったんだろう?
ところで見た映画というのは『ネクスト』で、予知能力のある主人公が、テロリストの計画を阻止して、恋人の命も救う、というお話。でも、実際に描かれたのは、その失敗編で、テロリストが核爆弾をロサンゼルスで爆発させてしまう。成功編はやらない。
結局これは、将棋やチェス(私はどちらもやらないが)でいえば、「待った」がOKな棋士の話。失敗したら、いくらでも遡ってやり直せるので、絶対負けない。実際、主人公が未来を読む場面では、彼が次々に分裂して無数の分身が歩き出していて、その姿は将棋の先読みが次々に枝分かれしてしていくことを表現しているようだった。で、待ったが許されている棋士が勝つ様子を見ても面白くないわけだから、この映画が描けたのは、派手に負けそうになる読み筋なのでありました。でも、待ったが許されたら将棋は面白くない、という批判がましいことを言っても仕方がない。将棋は何度でも別の対局があって、そういう意味では、現実に何度でもゼロからやり直せるわけだが、ジンセイはそうはいかないので。だから、ジンセイに「待った」がきいたらという願いは、たわ言ではない。この主人公が先読みできるのも、たった2分だけだ。でも、この脚本家は、2分という一見短い時間が、人生を悲劇にするには十分なことを知り尽くしているに違いない。(一寸先はホントに闇ですから。)だから、2分逆戻しできる主人公を描いてみたくなったんだろう。そこがとてもリアルな感じがして、物語の表面的な荒唐無稽さの裏に、脚本家の心の闇が垣間見られるような作品でありました。

2013年7月26日金曜日

「風立ちぬ」――すべては風のおかげさま


どうやって風という目に見えないものをつかむか、そこが難しい。

「風立ちぬ」というタイトルは、ヴァレリーの詩「風が起きた、生きてみなければならない」がもとになっている。その詩の通り、風(空気)は人を生へと突き動かす言わば命の源なのだが、しかし、目には見えないし、手でつかむことも出来ない。

物語は零戦を開発する「二郎」と、結核を患う妻「菜穂子」の二つの物語が、つながり合うことで成り立っている。

題名から明らかだが、この二つは「風」(空気)がつなげてくれたようだ。目に見えないもの(空気)を捉えることの困難さが、二人が格闘している飛行機と結核の根底にあるのだから。

空気を捕まえることの難しさは、物語の初めから強調されている。そこでは、少年時の二郎が夢を見ていた。家の屋根から飛行機で空へ羽ばたくのだが、空に現れた邪悪な黒いものに撃ち落とされ、地面へと墜落していく。それから幾度か二郎は同じように墜落する夢を見ている。

映画を見終えて振り返ってみれば、空気を捕らえ損ねる悪夢の数々は、まるで菜穗子の結核を不気味に予告していたようだ。空気をとらえようとする菜穂子の肺をむしばむ、黒い邪悪な病巣のことを。

だが元々、風を見事につかんで見せたのは、後に妻になる菜穂子だった。
二人の出会いの場面だ。汽車のデッキでヴァレリーの詩を読んでいた二郎は、帽子を飛ばされてしまう。それを見事につかんだのが、菜穂子だ。そのとき、二人を結びつけた(つなげた)のは、一見、帽子だ。だが、そうではない。風なのだ。風は目に見えない。飛ばされた帽子は、見えない風を可視化する道具に過ぎない。だから二人はそこでヴァレリーの「風」の詩を口にする。

後に二人が軽井沢(?)で再会する場面でも、風に飛ばされたパラソルが二人を結びつける。それはもちろん、パラソルではなく風の手柄なのだ。
帽子やパラソルだけでなく、紙飛行機もまた、体調を崩した菜穂子と二郎の間を取り持ったりもする。「風」あっての二人なのである。

その風に舞う紙飛行機が教えてくれるのは、二郎のキャリアである飛行機もまた、結局この映画にとっては、風を可視化するものに過ぎない、ということだろう。

映画の最後、空を舞う無数の零戦の姿が描かれるとき、それは飛行機というより、私の目には桜吹雪に見えた。風に舞う桜の花びらもまた、一種の帽子であり、パラソルなのだから、飛行機もまたそうなのだろう。

二郎と菜穂子が結婚式を挙げる場面では、一見、雪が降っているように見える。しかし、よく見ると、それは雪というより紙片だった。あるいは紙吹雪だった。つまり、風が吹いていることが表現されていたのである。

だからこの映画で、宮崎の意識では零戦を描きたかったのかもしれないが、彼の無意識ではそうではなかったようにも見える。それは、帽子やパラソルを描くことが主眼であるはずがないのと同様だ。飛行機を含め空を舞う数々の物体は、風という見えない生命の源を可視化し、あるいはそれを映画の中で宮崎がつかんで差し出すための方便にすぎないのかもしれない。

私たちは時々、目に見えないものは存在しないと勘違いすることがある。あるいは、自分がつかんだ何かいいものを、自分の力でつかみ取ったと思い上がることもある。しかし、おそらく私たちの人生で出くわすよいものとは、見えないなにものかが私たちのところまで運んできてくれたに違いないのである。私たちに出来るのは、それをきちんとキャッチすることなのだ。

だからこそ、菜穂子という死者から二郎に届く「メッセージ」は、映画の最後にささやかれたような「あなた、生きて」という直接的な願いであるはずがない。死者という見えないなにものかは、「生きて」という手に触れるような(帽子とかパラソルとか飛行機とかのような)この世的な通信はよこさないし、それは宮崎駿も承知していたはずだ。

(二郎の声優の声がぶっきらぼうでなければならなかった理由がここにある。二人の物語に観客が感情移入することを困難にする必要があった。観客が死者の言葉を、まるで生者の言葉のように「この世的」に受け取ることがないようにせねばならなかった。)

だから、最後の「あなた、生きて」という菜穗子の言葉を、私たちはヴァレリーの詩(「風が起きた、生きてみなければならない」)から逆算して、聞かねばならないのだろう。つまり、「生きて」ではなく「風が起きた」の方である。風が起きたことを私たちは見過ごすことなくキャッチせねばならない。映画のタイトルが「風立ちぬ」であるゆえんだ。

死者からの通信は、いわば風としてしか届かない。目に見えない、つかみどころのないものとして。しかし、飛行機の設計技師という「風をつかむ専門家」である二郎は、妻からの「起きた風」をきっとナイスキャッチすることだろう。

これは蛇足だが、この世的な通信(直接的メッセージ)ではないものとは、どのようなものなのか。それは、たぶん、「偶然の一致」として私たちに感知されるようなものではないだろうか。不思議な偶然の一致を、私たちはそのままうち捨てておく(キャッチしない)けれども、おそらくそこに、なにかがあるのではないだろうか。そう考え始めるのは、ある病の始まりかもしれないが、ただ宮崎駿もまた「堀越二郎」と「堀辰雄」の「掘」つながりという偶然の一致を見逃すことがなかったことは、忘れてはならないはずだ。
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追記2013年7月27日
こう書いてから丸一日も経っていない26日深夜、NHKで『僕の彼女を紹介します』という映画を観た。それは風と紙飛行機の物語だった。

2013年6月1日土曜日

『ランドリー』――現代版鉢かづき姫の物語


程度の差はあっても、人はそれぞれが檻の中に閉じ込められている。

コインランドリーで働く主人公も、そこで洗濯をする客たちも、それぞれが「囚人」のように見える。

映画が始まって間もなく、コインランドリーに一人の軽量級のボクサーが現れる。試合に負けたようだ。その小さな男は、乾燥機の蓋を開け、中に入り込んでしまう。透明な蓋を通して、そのボクサーは外を見ている。時には乾燥機の中に入ったままカップ麺を食べたりもしている。彼は、いわば「檻」の中で生活を始めてしまったのである。

主人公は小さい頃に頭に怪我をして、知的障害を負っている。彼の面倒を見ていた祖母が、あるとき、こう言ったという。彼の記憶は、氷の中に閉じ込められている、と。

主人公と交流を深める女性もまた、ボクサーや主人公同様、傷を負っている。彼女の場合は、心の傷だ。でもそれもまた現実の傷である。だから、彼女が乾燥機に忘れていった洋服は、血で汚れている。そしてまた彼女も、一人の囚人である。映画の終盤、彼女は罪を犯し、収監されてしまう。彼女も「閉じ込められている人」なのである。

では、彼らはどのように救われるのか。解き放たれるのか。

主人公と彼女は、主人公がヒッチハイクで偶然出会った男の家に転がり込む。その男は、セレモニーで白い鳩を飛ばす仕事をしている。かごに入れられた鳩を大空に飛び立たせる男。つまり、檻に入れられた者を解き放つ仕事人である。

その男は、ある日突然、結婚をするために外国へ行くと宣言して、二人を残して出て行ってしまう。この男は鳩だけでなく自らをも大空へと解き放ったわけである。

主人公は、鳩を飛ばす仕事を手伝ったり、その男の家出を通して、知らぬ間に、解き放つコツをつかんでいく。

だが、もっと重要なのは、彼女との出会いである。彼女は、「氷の中に閉じ込められている」彼の記憶を解き放ってくれたのだから。

あるとき、お話を聞かせてくれと彼女にせがまれ、主人公は祖母から聞いた口笛のうまい船乗りの話を語り出す。荒れた海で船が難破したところまで話をすると、主人公はその先が思い出せなくなってしまう。つまり、そのお話の結末は、主人公の記憶という「氷の中に閉じ込められて」いて、解き放つことができないのだ。しかし、物語結末で、彼女が収監されたこと(すなわち閉じ込められたたこと)をきっかけに、彼は話の続きを思い出す。

彼女が逮捕されたことに絶望して雨の中に倒れた主人公は、いつの間にか、おとぎ話の難破した船乗りの姿に重なっていく。遭難した船乗りは、溺死することなく浜に打ち上げられ、一人の女性に助けられている。そのとき立ち上がった船乗りは、上下とも白い服を着ている。この船乗りは、女性によって解き放たれた白い鳩なのであり、主人公もまた同様なのである。

だからこの直後、映画の中で主人公が出会った人々の姿が次々に映し出されるとき、カメラの視点は、普通の人間の目線ではない。かなり上の方から撮っている。あるいは、空を映し出している。つまり、それは鳥の視点なのである。主人公自身も、解き放たれた白い鳩になったわけだ

刑期を終えた(檻から外に出た)彼女が目にするのは、空を舞う白い鳩の姿だった。その鳩を追うと、主人公がいる。こうして二人は共に解き放たれた者として再会する。そしてその場で、二人は目を閉じて自分たちの結婚式をリアルに想像する。こうして二人が現実の世界からも解放された姿を見て、私たちは、現実もまた一つの解放されるべき「牢獄」であることに気付く。

この物語には、派手なヒーローはいない。登場人物たちは、それぞれが「敗者」であり、小さな存在に見える。しかし、そう見えてしまうとしたら、それは見る側が現実という牢獄に入っているからなのだろう。それ自体一つのおとぎ話のようなこの映画は、確かに私たちを世間一般の成功の尺度から解き放つことに成功しているように思う。