最後の場面、二人の男の会話が終わった後、すべての謎が解明されたと私たちが思った瞬間、画面にあるものが映り込んで、それが無言の種明かし――本当の答え――であることをどんでん返し的に知らされる。
その瞬間、実は種明かしは、映画が始まってまもなく、さりげない形でなされていたことに私たちは気づく。
それは小鳥の手品だ。小鳥をカゴの中に入れ布で覆う。すると別のところから小鳥が出現する、という手品。しかし本当は、出てきた小鳥は別の小鳥なのである。隠された小鳥は、カゴごとぺしゃんこにつぶされ、布の中に消え去っていたのだ。
この何気ない手品の種明かしは、この映画全体の要約みたいなものだったのだ。
まず、これは「カゴからの脱出劇」でもあり、「小鳥の瞬間移動」でもある。この映画全体もこれら二つの意味合いを持っている。
もう一つ重要なのは、この手品には、うり二つの二羽の小鳥がいて、一方が殺されなければ、手品は完成しない、という点。
さて、この小鳥のトリックを映画の最後に思い出し、映画全体を振り返ってみると、この物語の二重性、三重性に気づくことになる。
一つは「瞬間移動」という大きな筋で、これは明白。エジソンのライバル、テスラ(実在の科学者で、セルビアなまりの英語を喋る人だったから、映画でもなまりが再現されている)の作った「瞬間移動道具」が実は「FAX」みたいなものだった。それを使って「瞬間移動」の手品を披露しようとすると、「原稿」が二重化されてしまうものだから、そこで手品師がどうするかと言えば……。
もう一つは「脱出劇」。ライバル手品師にはめられて、殺人の罪を着せられた手品師が、いかに牢獄から「脱出」するか、という筋。もちろん、そんなことは現実には不可能なのだが、あの小鳥のトリックを使えば、見かけ上は可能なのである。死刑になった手品師には娘がいる。彼女は自分の目の前に現れた「父親」が「脱獄」して帰ってきたのだと思い続けて手品の観衆的人生を送ることになる。(そしてそれは不幸なものになるだろう。すでに手品師の別の家族(妻)が、夫の正体がわからずに悩んで自殺していたわけだから。あの娘も大きくなったら同じような悩みを抱えることが予想される)。
三つ目は、この映画全体の物語展開。なぜ、二人のライバル手品師の物語が、一方をいかに抹殺するか、という壮絶なものでなければならないのか。表向きは、いろんな恨みだのなんだのがあるのだが、本当の理由はそうじゃない。答えはやはりあの小鳥のトリックにある。二人とも生きていては「手品」は成立しないから、なのである。
蛇足だが、二人の電気関係発明者(エジソンとテスラは直流・交流論争でライバル関係にあった)のエピソードも同様。エジソンの手下がテスラの実験施設を焼き払うのは、電気という「手品」でも、「双子」(エジソンとテスラ)のうち一人が抹殺されねばならなかった、ということだろう。現実にエジソンはテスラの交流電流を否定しようと必死だったようだ。これは見事に成功し、今の日本でもエジソンは子どもでも知っているが、テスラは大人でもあまり知らない。(テスラについては、ポール・オースターの小説『ムーンパレス』、柴田元幸訳の209-18ページにとても面白い記述があるので、興味がある人はどうぞ。エジソンについては、まず「ちびまる子ちゃん」の歌を聴いて下さい笑)