もちろん、松子とは「待つ子」である。
さっきテレビで放送していたのを見た。この映画を観るのはこれが二度目だ。
しかし、残念なことに、今回はノーカット版ではなかった。それに気づいたのは、初めて観たときにとても印象的だった場面が、最後まで現れなかったからだ。
その場面とは、松子がアイドルグループかなにかのファンになって、ファンレターを書き続け、その返事をひたすら待つというところ。アパートの郵便受けまで、何度も何度も確かめに行くのだが、いつも空っぽ。季節が変わっても、まだ返事を待っている。徹底的に待っている。
この場面が、決してカットされてはいけない部分だということは、おわかりでしょう。
松子が「待つ子」であることが描かれているのだから。
そこで待つことに注目すると、松子の不幸の原因がなんとなくわかる。
殺人をして牢屋に入った松子は、理容師との再会を待ちながら刑期を終える。しかし、出所して理容室に戻ってみると、その理容師は別の女と結婚していた。
逆に、松子の恋人が牢屋に入ったケースでは、彼の出所を待っていた松子をその恋人は殴り倒す。雪の中に倒れた松子は鼻血を流して「なんで~?」とつぶやく。
なんでか松子に教えてあげよう。
あなたは、いつも待つ相手を間違っているのだよ。
松子は待つ相手を間違えているから、いつもアパートに帰ると「ただいま~」と独り言をいうことになる。誰も待っていてくれない、という事態になる。
一方、松子は自分を待ってくれている人には背を向けてしまっている。
日記に毎日「松子からの連絡ナシ」と書いて、松子を待ち続けていた父親とは、死ぬまで会うことがない。
病院の「待合室」で再会した沢村さんは「待ってるよ、まっちゃん」と叫ぶが、松子は逃げていく。(ちなみに沢村さんには「おかえり」と言ってくれる人がマンションにいる。)
松子の妹もそうだ。病気の妹は、いつも松子を待ってくれている。しかし、松子は妹を投げ飛ばして家を出て行く。この投げ飛ばしは、二度描かれるほど念入りだ。
つまり、松子の不幸は、自分を待ってくれている人が誰なのかわかっていない、という点につきる。
(いや、もう一つ不幸の原因がある。それは金だ。松子は「これで人生が終わったと思いました」と三度感じるが、三度とも金が絡んでいる。修学旅行で生徒が金を盗む、金を松子から受け取った作家が自殺する、五〇〇万円返さない男を松子が殺す。)
自分が発した「ただいま~」を受け取って、「おかえり~」と返してくれる人がいることが、幸せの条件、なのだろう。
しかし、松子が不幸なのは、松子を待ってくれている人たちがもう死んでしまっているってことなのだ。お父さんも、妹も。
この映画では、そこで神様登場ってことになる。恋人「リュウ」が、自分を待ってくれていた松子に気づいた時は、もう手遅れで、松子は死んでいる。そもそも中学生だったリュウが最初の松子の人生を「終わらせた」張本人だったのだから、中学生に殺された松子は、ほとんどリュウが殺したようなものだ。待ってくれていた松子に気づかなかった「罪」を背負ってリュウは生きていく。つまり、リュウは、松子の物語をもう一度繰り返すかのように、これから生きていくことになる。
そしてその手には聖書が握られている。
だから、最後に、実家の階段の上で待ってくれている妹と松子が「ただいま」「おかえり」と挨拶する声が、神々しく聞こえてくるんだろう。待つとは、「信じること」だったのである。