むしろ逆で、「おまえらこの映画見たって、ちっとも人生変わらねぇんだろ。ダメな奴ら」って黒沢の声が私の耳には聞こえてくる気がする。
物語は、主人公が死んじゃっておしまい、ではない。葬式の場面がえんえんと続く。その理由を考えなければならない。
葬儀では、主人公の同僚が、生前の主人公の働きぶりを振り返って、あれこれと議論して、最終的には「よし、オレも生まれ変わろう」と口々に絶叫する。
さて、この同僚たちの姿が、ちょうどこの映画を見ている私たちの姿でもあるところがミソなわけだ。主人公の生と死を目撃したのは、同僚と、そして私たちだ。この映画を見た私たちが、もしも「よし、オレもがんばろう」と薄っぺらな決意したとする。その瞬間、私たちは市役所の人々と重なり合ってしまう。
そんな私たちを、黒沢は映画の最後で突き放す。結末では、主人公の生き様がほとんど周囲の人間を変化させなかったことが描かれる。つまり黒沢は、この映画「生きる」を見た私たちが映画を見終わればすぐに普通の日常に戻ってだらだらと日々を送ることを見越しているわけだ。彼は、いかに死を自分の問題として捉えることが難しいかを知っている。
カミュは「人々がいかに死を知らぬようにして生きているか、いくら驚いても驚き足りない」みたいなことを『シジフォスの神話』で書いてた(ような気がする)。これは古いテーマで、プラトンなんかも「死について考えることが全ての哲学の始まりだ」と言っていた(ような気がするが保証は出来ない)。
ただ、そんなことは誰でも知っている。そうであっても、多くの人々にとって死とは、いつまでたっても他人事でしかない。私たちが本当の意味で「生きる」には、ガンの告知や肉親の死などで、がつんと「死」というヤツに殴られるしかないのだろうか。そういう目覚めの一発的な破壊力は、映画にはないのだろうか。こんな疑問を黒沢は抱えていたんじゃないだろうか。