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2009年2月16日月曜日

東京ゴッドファーザーズ:なぜ偶然ばかりの筋なのか?

家族の物語は、このトシになると身にしみる(笑)
この作品には、様々な形態の家族が描かれている。ゲイ・バーで働く母を持つ中年のゲイ、家出してきた主人公……。そして離ればなれになった家族の再結合がもっとも目立つ筋立てだ。ほとんどの人が、この作品をそのように見るのだろうし、それで感動したりするのだろう。

しかし、この作品は、それ以上のものを語ろうとしているところが面白いんじゃないだろうか。家族が「この世的」な主題だとすれば、この作品には、「あの世的」な主題が隠されていると思う。

私が気になったのは、「度重なる偶然」である。結局、「偶然って何よ」と考えてみると、この作品が隠し持っている何かがみえてくるのだと思う。ずーっと細かいところで偶然だらけだった筋立てが、最後の場面で爆発する。中年ホームレスのもっていた宝くじが一等に当選する、家出していた主人公と父親が全く偶然に再会する。ほかにもあっただろうが、思い出せない(^^;)
こういう奇跡的な偶然は、普通は、フィクションにとっては「禁じ手」であって、ご都合主義的な展開を見せられると普通はバカらしくて見ていられなくなってくる。あるいは、笑って見ておしまい、ということになる。

しかし、この作品のように、これでもかっ、というぐらい偶然を連発していると、むしろ、その偶然の連発自体に、なんらかの偶然ではない意味合いがあるのだろう、と感じられてくる。このあからさまな「不自然さ」は、なんのため?と考えたくなる。

さて、究極の偶然というのは、宝くじでも天気(雪)でも偶然の再会でもなくて、親子関係ってことなのではないだろうか。
普通、親は選べない。その「偶然」は受け入れる しかない。この作品の人々は、その偶然(=家族)の受け入れがたさとか、もろさとかに苦しんでいる。

そこで最後の場面である。あの偶然爆発の。そこでは、この作品の中心人物――捨て子の赤ちゃん――の両親が登場する。つまり、偶然によって有無を言わせず結びつけられた関係(親子)が、一度切断され(捨て子)、そして再結合される、という筋の一応の結末だ。しかし、話はここで終わりにならない。ここまで赤ちゃんの面倒をみていた三人のホームレスたちを、赤ちゃんの両親が、「ゴッドファーザーズ」にするのである。つまり、赤ちゃんに名前をつけてくれと、いうのである。

これはいったいどういうことか?普通、親は選べない。しかし、赤ちゃんの「ゴッドファーザー」は選ばれる。 つまり「親」という本来「偶然」であるものが、意図的に「選び取られる」。 さて、自分が引き寄せ、必然にまで高められる偶然とは何なのか。

それは信仰のことだろう。「ゴッド」ファーザーとは、まさに神の話なのである。

信仰とは、吟味して選ばれるものではない。信じる前に、いろいろな宗教のカタログを広げて、仏教は座禅なんかして健康によさそうだけど、クリスチャンだったら色のついた卵をもらえたりクリスマスでもりあがったりするし、ヴェールをかぶる宗教だったらノーメークでも平気だし…とか、そういう損得勘定をしてから選ぶものではない。「見る前に飛べ」的に選び取られるものが信仰だ。(内田樹が、師匠を弟子がどのように「選ぶ」かについて同様な話をしていて、これは信仰についてもあてはまるんじゃないかと思う。というか内田はすでに宗教についてもそう言ってたかもしれないが、確認していない)。

だからこの作品の冒頭で、捨てられていた赤ん坊を、ホームレスたちは、なにも考えずに拾い上げる。
季節はクリスマス。もちろん冒頭は教会の場面で始まっていた。つまり、ホームレスたちは、イエスの誕生日(クリスマス)に、もう一人の赤ん坊を宿命的に引き受けた、あるいは偶然的に「選び取った」のである。これは、信仰の道に踏み出し、である。多くの宗教から、「イエス」 を子として選び取り、即、拾って育てた、のである。

選び取られる偶然、それが宗教の本質なのではないだろうか。そのことを、作品中の実に不自然な偶然の連発は示しているのだろう。

そういえば、主人公が拾ってきた捨て猫の名前も「エンジェル」だった。
そして再び言えば、これは「ゴッドファーザーズ」の物語だ。このタイトルは、信仰の物語(「ゴッド」)と家族の物語(「捨て子」と「ファーザーズ」)を、三位一体的に結合しているのである。

だからこそ、この物語に重ねて描かれている一見あほらしい「偶然」群は、「奇跡」としてみなされねばならない。
(そう考えてみれば、一見平板な物語展開に苦痛を覚えた人も、少しは楽しめるのではないだろうか)。

2009年2月14日土曜日

黒澤明の『生きる』:私たちが映画に出演している!!

この映画、ただ単に「今を生きろ」ってメッセージを発しているわけじゃない。 
むしろ逆で、「おまえらこの映画見たって、ちっとも人生変わらねぇんだろ。ダメな奴ら」って黒沢の声が私の耳には聞こえてくる気がする。 
物語は、主人公が死んじゃっておしまい、ではない。葬式の場面がえんえんと続く。その理由を考えなければならない。
葬儀では、主人公の同僚が、生前の主人公の働きぶりを振り返って、あれこれと議論して、最終的には「よし、オレも生まれ変わろう」と口々に絶叫する。
さて、この同僚たちの姿が、ちょうどこの映画を見ている私たちの姿でもあるところがミソなわけだ。主人公の生と死を目撃したのは、同僚と、そして私たちだ。この映画を見た私たちが、もしも「よし、オレもがんばろう」と薄っぺらな決意したとする。その瞬間、私たちは市役所の人々と重なり合ってしまう。
そんな私たちを、黒沢は映画の最後で突き放す。結末では、主人公の生き様がほとんど周囲の人間を変化させなかったことが描かれる。つまり黒沢は、この映画「生きる」を見た私たちが映画を見終わればすぐに普通の日常に戻ってだらだらと日々を送ることを見越しているわけだ。彼は、いかに死を自分の問題として捉えることが難しいかを知っている。
 
カミュは「人々がいかに死を知らぬようにして生きているか、いくら驚いても驚き足りない」みたいなことを『シジフォスの神話』で書いてた(ような気がする)。これは古いテーマで、プラトンなんかも「死について考えることが全ての哲学の始まりだ」と言っていた(ような気がするが保証は出来ない)。 

ただ、そんなことは誰でも知っている。そうであっても、多くの人々にとって死とは、いつまでたっても他人事でしかない。私たちが本当の意味で「生きる」には、ガンの告知や肉親の死などで、がつんと「死」というヤツに殴られるしかないのだろうか。そういう目覚めの一発的な破壊力は、映画にはないのだろうか。こんな疑問を黒沢は抱えていたんじゃないだろうか。 

2009年2月12日木曜日

鉄コン筋クリート:最後にリンゴが映っているよ

リンゴに目に落下。 
こりゃ、エデンの園の裏返しの物語なんだろう。 そもそも監督の名前マイケル・アリアスも聖書的で、「別名天使」と読み解くこともできる。マイケルは「ミカエル」。つまり、悪魔と戦う天使。アリアスは英語で「別名」(発音は「エイリアス」)って意味だ。ただ、今ちょっとグーグルしてみたら、"alias"じゃなくて"Arias"という名前のようだ。これは本名じゃないな、賭けてもいい(笑) 映画の中でわけもなく「バビロニア」がどうのとか差し挟まれているのもそういうことだろう。

このアニメのクロという人物が、「救世主」として描かれていることは、手に傷が残っていることが示している。あれは「スティグマータ」、聖なる傷なわけだ。スティグマータとは、たとえばスペインとかポルトガルとか南米とかで「おーっ、おれの手のひらから血が流れてきた!おれはキリストの生まれ変わりだ!」的な、よくあるとんでもニュースでおなじみの傷のこと。もちろんこの映画では、それは聖なるものではなく裏返しの黒い意味をもつ傷だけれど。
 
物語の最後は、クロとシロが「楽園」みたいなビーチにいるのだが、そこでクロが「落下」している。いや、最後だけでなく、この映画では、「落下」が執拗に描かれている。物語が始まって間もなく、バスの屋根の上からシロがぼとんと背中から地面に落ちる異様な様子を、忘れる人はいないだろう。その後も、やたらと飛び降りたり、墜落したりする。

落下、fallとは、創世記の「堕落」のこと。私はこういう定型的な解釈は普通は嫌いだけど、やはりこの作品ではそのことが意識されていることは間違いないと思う。それは、映画の最後に映し出されている、木の札に描かれたリンゴの絵がはっきり示しているから。あれは、エデンの園の禁断の実(リンゴ)なのだろう。しかし、この物語の中では、リンゴの札の下から、シロが植えたリンゴの種が芽を吹き始める。そこで終わり。

ようするに、聖書ではリンゴは人間に罪をもたらした根源だけれど、この映画では、それを裏返すような感じでリンゴが使われている。罪を洗い清めるような。クロをシロくするような。
だから、かれらの「落下」も、普通の下方向への落下ではなくて、その裏返しである可能性もある。つまり、飛翔ということ。そういえば、クロとシロが、二人で飛行機に乗りたいって言ってたのも、そういうことだろう。飛び立ちたいのだ。落ちつつも。

一見反対のものは、お互いがお互いを構成している、ということだろう。右と左、天と地、シロとクロ。
だから罪があって初めて救いがある。落下があって飛翔がある。言い換えれば、罪や落下やクロを切り捨てた世界なんて成り立つはずがない。

そしてなにより、このアニメを貫いているのは「目」である。登場人物たちの目が大写しになるだけじゃなくて、最後のビーチの場面で、シロはサンゴで作った大きな「目」の中にいる。目とはもちろん神のこと。ギャツビーの眼鏡屋の看板もそうだし、メイソンの目のシンボルもそうだけど。だから結局、人間を罪の意識に絡め取っておく目の呪縛から、シロとクロは解放されるのだろうか、というのがこの作品が突きつけてくる大きな問題のように思う。

この結末に答えはある。というのも、結末の状況が、作品全体の未来的縮図になっているからだ。作品の舞台は、ニューヨークみたいな川の中州に出来た街だった。その街全体がどきどき俯瞰的に映し出されていたけれど、それが奇妙に目玉の形をしていたことにみんな気づいていたはずだ。だから、最後にシロも目玉の中にいるのだ。街の建物の色遣いもピンクとか緑とかド派手だったが、あれはサンゴの色なのだろう。シロが最後に作っている目玉もサンゴを材料にしている。

しかし、最後の「目」は、あの街の巨大な目の裏返しなのだろう。金魚鉢が割れて死んでしまったあの金魚とは対照的に、海を泳ぐクロの姿がそれを暗示している。つまり、最後のサンゴの目は、二人を断罪する神の目を裏返したみたいなもので、二人を解き放つ目なのだろう。だからあの「イクトゥス」は、あんなに気持ちよさそうに泳いでいたのだ。そんな感じの物語の幕切れだった。

二十日鼠と人間:農園主の一言が全てを語る

この映画(原作はスタインベックの小説)の最後で、レニーという大男が死ぬ。というか、親友ジョージに撃ち殺される。
ここで必要なのは、レニーがかわいそうとかいうことじゃなくて、どうしてジョージがレニーを撃ち殺さなければならなかったのか、ちょっと考えてみることだ。

このラストシーンに至るまで、一体何匹(何人)殺されていたのか思い出してみると面白いことに気づくだろう。
しかし、それはめんどくさいので、とりあえずレニー(大男)にしぼってみると、彼には「好きなものをひたすらなでる」というクセがあった。なでてなでて、その挙げ句に「なで殺して」しまう。かわいい子犬をもらって、なで殺す。農園の奥さんの髪の毛をなでていて、結局、彼女を殺してしまう。

さてここで、最後にレニーを殺したのは誰だったのか、思い出してみたい。
もちろんジョージが殺したのだ。なぜ殺してしまったのか?答えは簡単である。ジョージはレニーを「なで」すぎていたのだ。かわいがりすぎていたのである。

この物語で、おそらく一番大事な台詞は、二人が農場についたときに農場の主人が疑いの目でジョージを見ながら、

「人のためにこんなにしてやるやつをオレは見たことがねぇ」

と言うところだろう。要するに、農園主から見れば、ジョージはレニーを「かわいがりすぎていて怪しい」わけだ。ジョージはレニーをなですぎている。かわいがりすぎて、その挙げ句に最後にああいうことになってしまう。なですぎていろんなものを殺してしまうレニーと、結局、ジョージは同じだったわけだ。

二人は同じ罪を犯していた。

こう書くと、たぶん、彼らは労働者であって、貧しい階級を作り出した社会を断罪すべきだ、というような反論があるのだろうが、この映画に関しては、それは当たっていない。というのも、この映画には農園主の息子(つまり、二人を雇っている側)が描かれていて、彼も結局、レニー的な存在だからだ。農園主の息子は、妻を「なでる」ために、自分の右手にオイルをぬって、やわらかく保っていたのだった。しかし、妻は明らかに夫を愛していない。なでられて幸せではない。そして最終的には、彼女は夫ではなくレニーになで殺される。

貧乏でも金持ちでも、つまり誰でも、「うまくなでられない」。自分の犬を撃ち殺されたおじいさんが片手を失っているのも、農園主の息子がレニーに手を握りつぶされるのも、そういうことなんだろう。みんな「うまくなでられない」人間たちなわけだ。

映画の舞台は1930年代、20年代末のバブル崩壊後の大不況の時代である。しかし、そのような遠い目でこの映画を見ることは、だから、間違っていると思う。貧乏でも金持ちでも、昔の人でも今の人でも、大男でも小男でも、そしておそらく私たち全員も、人をうまく「なでる」ことは難しい。
どうしたら「ちょうどよく愛する」ことは可能なのだろうか。そんなことはそもそも人間には許されていないのだろうか。どんなによい意図を持っていても、なぜか最後はうまくいかない。人間って、ろくなものではないですな、ははは。
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ところで先日、爆笑問題と精神科医の齋藤環との対談で、「愛は負けても親切は勝つ」という言葉が話題になっていた。齋藤の臨床のモットーだという。愛は「諸刃の剣過ぎて、ちょっと治療には使えない」。だから、「親切」がちょうどいいと。

そういえば、何年か前には... in the end, only kindness matters ... と繰り返す歌が流行っていたな。(この歌自体はすごく政治的にも聞こえるので好きになれないが、始まりの一節we are all okayというところはグッとくる)。