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2009年5月24日日曜日

すべての手塚漫画は弔辞である

映画じゃないですが、手塚治虫の漫画についてもう少しだけ。

いきなり「すべての手塚漫画は弔辞である」なんて大風呂敷をひろげてしまうと、「すべての人間は生まれ、やがて死ぬ」みたいにおおざっぱすぎて意味がない、ということは承知している。しかし、そう言い切ってみたくなってしまったのは、さきほどNHKで『ジャングル大帝』の最終回をみたからだ。

吹雪の山の中で、主人公の白いライオン・レオが死ぬ。一緒に山を下りるヒゲオヤジに自分の肉を食わせ、毛皮をまとわせるためだ。レオはヒゲオヤジに「記録」を持ち帰らせようとしていた。それは物語上は「月光石」なるものの記録なのだが、本当はそんなことはどうでもよくて、実は、死んだ者の「記録」なのだろう。なぜなら、ヒゲオヤジがこう言うからだ。

「おまえのことをジャングル中に話してやるよ。レオは死ぬまで立派なジャングル大帝であった……とね」。

そしてまもなく山を下りたヒゲオヤジは、レオの息子ルネと偶然出会う。二人はジャングルへ戻っていく。こう語り合いながら。

「帰ったらみんなにな、お父さんがどんなに立派だったかを話してやろうな」

この繰り返しが、すべてを語っているのではないだろうか。
この地点から『ジャングル大帝』全体を振り返ってみれば、この長大な漫画自体が「死んだお父さん(レオ)がどんなに立派だったか」というエピソードの集積に他ならないことがわかる。いわば、この漫画は壮大な「弔辞」だったのである。

この最終回を知らなければ、私も『ジャングル大帝』を子ライオンのレオが成長していく物語だと思ったかもしれない。しかし、時間の流れは子供→大人、という普通の方向ではないようだ。むしろ、大人→子供、という過去へとさかのぼる方向なのだ。つまり、これはお父さんがまだ子供だった頃の物語、あるいは、死者がまだ生きていた頃の物語、なのである。それを死者の家族(息子)が、あるいは死者の化身が、私たちに語って聞かせる、という形なのだ。

いきなり私は「すべての手塚漫画は弔辞である」と言い切ったが、実際には、私はまだ『手塚治虫名作集』なるものを3冊読んだだけなので、ハッタリもはなはだしい。しかし、その三冊も、同様な話ばかりであった。ただ、「死者」の形にヴァリエーションがあるだけである。

『名作集』の第二巻の巻末に、立川談志が解説を書いている。そのなかで、「アイディアは安売りできるほど(たくさん)ありますよ」という手塚の言葉を紹介している。しかし、はたして本当にそうだったのだろうか。

『名作集』に描かれているのは、たった一つのことだ。脱線事故を起こす蒸気機関車であれ、焼失する樹齢1200年の大樹であれ、風に吹き飛ばされていくポスターであれ、お岩さんの亡霊であれ、都市から閉め出された妖怪たちであれ、すべてが「死者」なのである。そして、彼らは、孤児を拾い上げ、いわば「義理の息子」として育て上げる。そして、遺された「息子」たちが、時間の流れに抗って、死者について語るのである。

本物の作家は本物の問題と向き合っている。芸術家にとっての本物の問題とは、元来、解決が不可能な問題だと私は思っている。最終解答が決して得られない問題だから、本当の問題と向き合う作家は、何度も何度も同じ話を書いてしまうのである。夏目漱石が三角関係の話ばかりを書いたり、宮沢賢治が食ったり食われたりする話を書き続けたりしたのと同じように、手塚は死者と孤児の物語ばかりを繰り返し書いた。ライオンのレオも両親を失い、人間に育てられた孤児だ。ロボットのアトムも、ある科学者の死んだ息子の化身であり、その科学者から捨てられた後、別の「親」に引き取られた孤児である。『名作集』もその手の話ばかりである。時間はさかのぼらない。死者は生き返らない。しかし、それでもなお手塚は、時間の中に葬り去られていく死者たちついて、いわば彼らの「義理の息子」(もらわれっ子)として語り続けるという重大な使命を果たそうとする。

立川談志は手塚を「天才」と呼ぶ。私もそう思う。しかしそれは、「アイディアが無限にある」からではなく、解決可能な問題にしか向き合えない凡人とは違っていた、という意味においてだ。手塚は自分にとって重要だが解決のできない問題――時間に逆らって、死者について「義理の息子」として語り続けること――への責任を果たし続けた、という点において「天才」なのだと思う。