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2020年1月23日木曜日

『ラストレター』――元男子高校生の罪と罰


(2020年1月現在公開中の映画です。ネタバレ注意報発令中ですのでお気を付け下さい。)

自殺した母・未咲が娘に遺した「最後の手紙」を巡る一夏の物語だ。私はこれを、未咲の高校時代の男友達が犯した罪と罰の物語として観た。

さかのぼること25年前(映画『Love Letter』が公開された頃)、高校生だった未咲にラブレターを書きまくる男子生徒、鏡史郎がいた。結局、その恋は実を結ばないのだが(後に咲は、ろくでもない男と駆け落ちしてしまう)、鏡史郎は小説家となって、咲についての小説を書き続ける。第一作『咲』は文学賞を受賞した。その後も鏡史郎は、自分が失った咲の姿を追い求めるかのように、咲を題材にした小説を書き続ける。しかし、まったく売れない。四十を過ぎた今も独身で、塾で高校生に作文を教えて生計を立てながら、安アパートで暮らしている。

こんな彼の人生は、彼にあらかじめ与えられた罰のように私には思われた。鏡史郎には、幸せになる資格がない。結果的に、彼が咲を「殺す」というか「見殺しにする」のだから。

未咲が結婚した相手がひどい男であることを、鏡史郎は知っていた。咲がよこした年賀状で、住所も知っていた。しかし、実際に彼がその住所を訪ね、その男と対決したのは、咲が死んだ後なのだった。鏡史郎は、来るのが遅すぎたのである。様子を見に来るチャンスはあっただろうに。

その男は酔った勢いで「自分が咲を不幸にした」と開き直る。そして鏡史郎に向かって「おまえは咲の人生に何ら影響を与えていないんだよ」とあざ笑う。

これは半分当たっているが、半分は致命的に間違っている。確かに、鏡史郎は咲を救うことは出来なかった。しかし、この酔っ払いの男は、自分の妻だった咲にとって、鏡史郎がどれだけ大きな存在だったのかは知らないのだ。咲が森の中で自死する最後の瞬間まで、その登場を待ち焦がれていた相手だったということを。(映画のラストで明かされる咲の遺書の内容からすると、このように推察できるし、咲の妹も鏡史郎に向かって「悔しいなあ、あなたが姉と結婚してくれていたら」とはっきり言う。)

しかしだからこそ、つまり、咲が死の瞬間まで鏡史郎のことを思っていたからこそ、鏡史郎の罪は重いのだ。彼だけが、咲の自殺を防げただろうに、彼は売れない小説をのんびり書いていたのである。

あるとき、咲の娘は憤る。母は自殺したのに「病死」と世間には伝えられた。母の死の真実を隠したがる人々を娘は責める。「なぜ隠さなきゃいけないの。お母さんはなにも悪いことをしていないのに」と訴える。

しかし、この娘は、怒りをぶつける相手を間違えている。自殺を隠したくなる人々の気持ちを、この子は理解せねばならない。大人が母の死の真相を隠した一つの理由は、真実を知れば傷つく人がいるからだろう。遺された人々は、程度の違いこそあれ、それぞれが罪の意識を抱えているものだ。誰だって自分や他人の罪悪感を刺激したくない。

だが、この映画の中で、そのような逃避を許されてはならない者が一人だけいる。それは鏡史郎だ。彼だけが、死んだ咲に対して、本当の責任を負っている。

だから、娘が怒りをぶつける相手は鏡史郎であるはずだ。しかし、娘も咲の妹も、彼に優しい。恐らくそれは、彼が一番苦しむべき人間であることを知っているからかもしれない。実際、すでに鏡史郎は、自らの罪に対する罰を前払いするかのように、暗い人生を安アパートで送っている。

鏡史郎を演じる福山雅治が、映画の中でまったく輝いていないのはそのためだろう。普段の福山のようにさわやかに輝いてはならないのだ。彼はただの貧乏作家ではなく不幸な罪人を演じているのだから。

ただ、映画の中で、鏡史郎自身は自分の罪をあまり自覚していないようだ。この映画は、鏡史郎の罪の意識をはっきり描くことがない。たぶん、理由は簡単だ。

鏡史郎が、まだ咲の「最後の手紙」を読んでいないからだ。

結末で娘は母の遺書を読む。そこで映画は終わる。でも私は、そのあとの鏡史郎のことを想像してしまう。彼も遺書を読むだろう。そのとき、咲にとっての自分の存在の意味を知り、自らの責任を思い知るはずだ。同時に、これからの自分には、これまで以上に苦しい人生が待っていると悟るだろう。決して償いきれぬ罪を自分が抱えていると知り、その罪とともに生きるしかないのだから。しかし、彼が誠実かつ選ばれた男であるならば、その重荷に耐えていくしかない。それが彼に残された唯一の誇り高き償いの道だ。

 だが、それはまた別の話である。それは「手紙を読むまで気づかない」男・鏡史郎の第二話だ。第一話は、高校時代に未咲のの手紙を読むまで、妹の恋心に気づかなかった罪なほど鈍い男・鏡史郎の物語だ(それが「ラストレター」の物語だった)。あのときは妹に「ごめん、全然気がつかなかった」と謝って済んだ。でも今度は、姉に「ごめん、全然気がつかなかった」では済まされないのである。相手はもうこの世にいないのだから。

 もう、どうしようもない。しかし、もしも遺された小説家・鏡史郎に出来ることがあるとすれば、未咲について、いや、未咲と共に、書き続けることだろう。かつて高校時代、実際に二人で一つの作文を仕上げた時のように。だからラストで、その作文こそが未咲の遺書の中身であったことが明かされるのは、その内容が娘を励ますものだからというよりも、作家である鏡史郎に向け、死んだ自分と共にこれからは書くようにと、鏡史郎が進むべき道を示すためだったようにも見えるのである。
(そうでしょ?)

2020年1月11日土曜日

大豆の思い出:『ユ・ヨルの音楽アルバム』(Tune in for Love/유열의 음악앨범)


なぜか私はこの映画をNetflixで繰り返し見てしまう。

主人公の男女の名前には、何かある。

男は、1994101日朝9時ちょっと前にパン屋に現れる。店で働く女子学生に何が欲しいかと問われると、大豆食品なら何でもいい、と答える。豆腐でも、豆乳でも。その後ずっと、この映画の中で、この青年はときどきTofuと呼ばれる。
一方、パン屋の女性の名前はMi-suなのだが、後に彼女のメアドがMisoooあることがスクリーンに映るので、彼女自身も大豆食品である「味噌」なのだと分かる。
その3年後、青年の兵役が始まるというので、連絡を取るために彼女が彼にメアドを作ってあげる。それは「dubu1001」だった。Dubuとは韓国語で豆腐なので、「101日の豆腐」ぐらいの意味だ。

結局、二人は10年にわたって、別れたり再会したりを繰り返すのだが、最後に、またもや朝9時、ラジオのDJユ・ヨルの言葉が、二人を決定的に結びつけることになる。
その言葉とは、「人の心の中で大切にしている名前は、日記みたいなもので、人生の記録そのものだ」というものだった。
そしてラジオで自分の名前が呼ばれるのを聞いたMi-suは、それがTofuのリクエストであったことを悟り、全てを投げ出してTofuの元へと走って行く。

これは物語の筋書きとはほとんど関係ないことだが、この映画はラストシーンで「名前が大切なんだ」とはっきり言っている。どうやら、二人の男女の名前が大豆つながりであることを、見ている人に気づいてもらいたがっているようなのである。DJが言うように「心の中の名前こそが思い出そのもの」なのならば、二人の大豆的な名前は、それを心に刻んでいる人(おそらく脚本家)にとって、とても大切な思い出なのだろう。

それは一体どんな思い出だったのだろうか。はっきりは分からない。けれど、なにか大豆に関わる、遠い昔の101日の朝に始まった思い出なのだろう。
そんな映画を、なんだかよく分からないけれど、私は繰り返し見てしまうのだった。

2019年7月6日土曜日

「猟奇的な彼女」(엽기적인 그녀):キョヌは最高の男

映画のラスト近くで、「彼女」はUFOを目撃する。UFOは未来人のタイムマシンだと信じている彼女は、そのとき未来人の存在をも確信したのだろう。さらに、未来人が自分のことを見ていることも。それを暗示するかのように、空を見上げる彼女の顔を、カメラは上方から、いわばUFOの視点から映し出す。つまり、未来人が彼女のことを見ている。これまで、それは彼女の願望に満ちた妄想に過ぎなかった。ところが、UFOの実在を確信したこの瞬間に、彼女には、未来人が存在していて、自分のことを見ていることが分かったのだ。

これはとても劇的なことだった。なぜなら、彼女にとって未来人とは、死んでしまった高校時代の彼にほかならないからだ。死んだ彼は、決して消えていなくなったのではない、未来人として彼女を見守っていて、いつかUFOに乗って、自分を救うために戻って来てくれる。あの場面は、彼女にとって、そんな救済の希望が確信へと変わった瞬間だったのである。

その直後、パッへルベルのカノンが流れてくる。これがこの映画の全ての答えになっている。未来人(死んでしまった彼)が、どのように再び地上に現れ、彼女を救うかの答えに。

そしてこれが、なかなか残酷な話なのである。まだ生きている一人の男、キョヌにとっては。

 一年前、恋人に死なれてしまった彼女は、その恋人そっくりの青年キョヌに出会う。そこから二人の笑える関係が始まる。その関係を私が「残酷」というのは、ひんぱんに「彼女」がキョヌを殴るという肉体的暴力を加えるからではない。彼女が自分のつらすぎる人生をキョヌにも強制的に味合わせたり、実現不可能な自分の夢を、ある意味でキョヌを犠牲にして、実現してしまうからだ。ある意味とは、彼女がキョヌからキョヌ自身の人生を奪い、死んだ彼の代役として生きさせる、という意味である。それは一人の人間に、普通に生きることを断念させるという点で、やはり「猟奇的」と言っていいほどの残酷さではないだろうか。しかし、もちろんこの映画が感動的なのは、キョヌがそんな残酷な運命を、ただ彼女を救うために、自ら進んで受け入れるからだ。

この映画の中で、彼女には実現不可能な夢が三つあった。1)映画の脚本家になること。2)死んだ彼のことを忘れること。3)タイムマシンで時間旅行すること。これら全てを、キョヌは彼女のために実現したり、実現しようとしたりする。

一つ目の脚本家になるという夢は、彼女独力では実現不可能なものとして描かれている。彼女の書いた時代劇を、キョヌは彼女の「代理」として映画会社に届けるが、ことごとく無視される。しかし後に、彼女の夢をキョヌが実現する。キョヌは彼女との思い出をネットに書き連ね、それが人気となってついには映画化されるからで、キョヌも台詞の中ではっきり自分が彼女の夢を(代理的に)実現したと言っている。


 これは、まったく「残酷」ではなさそうだ。むしろキョヌの成功物語だ。しかし、キョヌが作った映画とは、私たちが見ている『猟奇的な彼女』であることを考えると、それほど幸せなことでもなさそうな気がしてくる。つまり、その内容とは、彼女によって自分がいかに「死んだ彼の代役」にされたか、という一つの残酷物語でもあるからだ。


 そもそも彼女が時代劇にこだわったのは、それがタイムトラベルに似たものだからだろう。実際、彼女がUFOは未来人のタイムマシンだとキョヌに話したのは、自分が書いた映画の梗概(シノプシス)をキョヌに手渡した時だった。

なぜタイムマシンに彼女がこだわるのかと言えば、一見、過去に旅することができれば、死んだ恋人に再び会えるから、のような気もする。しかし、この映画は、その方向には向かわない。恋人に死なれてしまったという彼女の問題は、過去ではなく、未来に旅することで解決されるのだ。


この映画は、彼女が未来人を探す物語なのである。ここにこの映画の新しさがあり、残酷さがある、と思う。なぜならその未来人の役を担うのはキョヌなのだから。彼女は「暴力的」にキョヌを未来人に仕立て上げるのである。それもただの未来人ではない。死んだ彼が、もしも空白の時を超えて現在に現れたら、すなわち彼女と死んだ彼がともに過ごした時間から見れば「未来」に現れたら、という夢を実現させるという意味の未来人なのだ。


だからこそ、キョヌ自身がこの映画で描いている彼女との「猟奇的」な思い出とは、実は、死んだ彼と彼女の思い出を、自分が彼女のために再現してあげたものにすぎないのである。高校の制服を着てクラブで踊ることも、100日目の記念に彼女の教室にバラを一輪届けることも。

大学の大教室にキョヌがバラを持って現れるとき、彼女はピアノでカノンを弾いている。キョヌの好きだと言っていた曲だ。だから、映画のラストでカノンが流れるとき、彼女の頭の中にはキョヌの姿が浮かんでいるようにも思われる。しかし、カノンを弾く彼女にキョヌがバラを渡したとき、彼女はその瞬間を生きていただけでなく、同時に、彼が高校の教室にバラを持ってきてくれたという思い出(過去)をも生きていたのである。そして、彼女が執着するそんな過去は、むしろ彼女の「現在」なのであって、そこから大学の教室を見れば、それが「未来」にも見えるはずだ。だから潜在的に彼女の目には、キョヌは常に「未来人」として映っていたに違いない。

 ラストシーンで、二人が奇跡的に再会するとき、再びカノンが流れ出す。その時はっきり、彼女は「不思議だけど、未来人に会った気がする。あなたの未来に」と言っている。数年ぶりに現れたキョヌを「未来人」として彼女が見るのは、単に最後に会った時と比べて数年分「老けた」(成長した)はずのキョヌが未来の人のように見えた、という意味だけではない。わざわざ「あなたの未来」と言うのは、この結末が一つのタイムトラベルの実現であること、さらに彼女が(キョヌではなく)「あなた」、すなわち死んだ彼がそうなるはずだった未来の姿に会っている、ということを暗示している。


 こうして、「タイムマシンで時間旅行をすること」という彼女の夢はキョヌのおかげで実現した。過去にはさかのぼれないが(できるのは高校の制服を着てみることぐらい)、未来になら生きている限り誰でも到達することができる。そんな自然な時間の流れの中で、「現在」が「未来」であるかのように信じられる状況が、キョヌのおかげで可能になった。

 だが、このエンディングは、一つの夢の実現をファンタジーのような奇跡として描きつつ、もう一つの夢が破れ去ったことを示している点で、実にリアルでシリアスだ。つまり、時間旅行は実現したが、「死んだ彼のことを忘れる」という願いは決してかなわなかったわけだから。


 彼女は一度、その願望の実現に関してウソをついていた。失恋の腹いせに脱走した兵士に対して、心の傷なんてすぐに癒える、と慰めるが、それは現実に反した彼女の願望でもあったはずだ。同じように、エンディングで、死んだ彼の母親と話しているときにも、彼のことは忘れつつあると言っているが、これも兵士についたのと似たウソだろう。何年たっても忘れられないことは、彼女は再会したキョヌを「あなたの未来」と形容していることから明らかだ。

 時間旅行というファンタジーが実現し、同時に、死んだ彼を忘れるという夢はやぶれる。これは単なるビタースイートなエンディングなのではない。むしろ、論理的で当然のことだ。もしも死んだ彼のことを忘れられるのなら、そもそも時間旅行にすがる必要もなくなるからだ。逆に言えば、ラストが時間旅行の実現として描かれていること自体が、彼女が決して死んだ彼のことを忘れないでいることを示しているのである。


 こんな彼女と生きていくキョヌは、たびたび殴られる以上に辛くて残酷な人生を送っていくのかもしれない。彼女の心は死んだ彼のものでありつづける。この意味で、キョヌにとって彼女は失われた存在に留まり続けるだろう。だからラストシーンで二人が手を握り合っているとき、私には、「彼を失った彼女」と、「彼女を失っている彼(キョヌ)」が手を握り合っているように見えてしまって、しかたがないのである。
 むろんこれはキョヌが示した究極の愛だ。なぜなら、キョヌが彼女の不幸な運命を、彼女と同じように引き受けた、ということだからだ。いわばキョヌは、生きたまま彼女の精神的墓地に一緒に葬られる覚悟を決めたのだろう。これからキョヌは、痛みを伴う彼女のハイヒールを、自ら履いて歩いていくのだろう。「人の靴を履くこと」が持つ英語の慣用的な意味の通りに。だとすれば、彼女とキョヌがなぜか一度、関係を中断し、数年間の空白を作ったのも、彼女と死んだ彼との関係の断絶(空白が一生続く)を、キョヌが追体験するためだったようにもみえる。


 彼を失った彼女の運命を、彼女の「靴」をはいて、彼女を永久に失った男として、彼女とともに生きていく(死んでいく)物語を、キョヌは綴った。それが、恋人を救いに来る「未来人」としてのキョヌの使命だった。映画を作るという彼女の夢を、自ら『猟奇的な彼女』として実現することを通して、キョヌはもう一つの実現不可能な彼女の夢を、自らの人生を差し出すことで、かなえてあげるのである。
 
 そんなキョヌを最後に見上げるときの彼女の表情は、喜んでいるというより、最高の愛を体現したなにものかが目の前に現れた奇跡に感動しているように見える。だからこそ彼女の目から涙がこぼれ落ちるよりも早く、こちらが泣けてくるのだろう。
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追記(7/12):キョヌの言っていたジョージ・ウィンストンのカノンを調べてみたら、1982年のクリスマス頃発売された『December』というアルバムの曲だった。なんだ、だから気になったのか。これはこれでもう一つのあれだな。

2018年7月5日木曜日

『秋刀魚の味』――サンマって漢字で書けなくても味は分かりますよね

妻に先立たれた男はどうすればいいのか。この映画は、そんな問題を抱えた二人の男を描いている。一人は主人公の平山(笠智衆)。もう一人は平山の旧制中学時代の恩師(東野英治郎)で「ひょうたん」と呼ばれる老人。この二人は、一つの深い喪失感(妻の死)に対して、対照的な行動をとる。

二人にはそれぞれ娘がいる。「ひょうたん」は娘を嫁に出さず、もう40を過ぎたと思われる娘と暮らしている。つまり、「妻に死なれてしまった」という問題を、娘を使って解いてしまったのである。ひょうたんはそのことを悔いて「娘をつい便利に使ってしまった」「娘を家内の代わりにして、ついやりそびれた」と嘆く。一方、平山には24才の娘ミチコがいて、物語の初めでは父娘ともに結婚にはまだ早いと思っていたのだが、結婚を勧める友人のアドバイスが効いて、物語はミチコの結婚で締めくくられる。そしてその友人が言う――「おまえ、ひょうたんにならなくてよかったよ」。

だからこの映画は、「与えよ」と主張しているようにも見える。娘をほかの男に与えなかったひょうたんと、与えた平山。

たしかに、映画の細部において、ひょうたんが「もらってばかりの人(与えない人)」であることは繰り返し描かれている。宴会の席では酒をついでもらってがつがつ食べた挙げ句、土産にウィスキーをもらい、後日は教え子たちから2万円までもらっている。金を持参した平山に対し、一応ひょうたんは酒や食事を勧めたりするものの、結局、映画の中でひょうたんが(お礼の言葉以外)誰かに何かを与える場面は一つもなかったと思う。拾った新聞を読んでいる人物として初登場したひょうたんは、「もらう人」であり続けた。

一方、平山は一貫して「与える人」として描かれている。家にドーナツがあれば自分で食わずに息子に与え、近く結婚する部下の女性には封筒にお札を入れて渡す。冷蔵庫を欲しがる息子幸一(佐田啓二)には5万円与え、先述の通りひょうたんには2万円与えた、というか、ほとんど押しつけた。

この「無理にでも押しつける」という点でとても興味深い人物がもう一人いる。幸一の同僚、三浦だ。幸一の妻が三浦を「押し売り」と的確に表現している通り、三浦はゴルフクラブを執拗に幸一に売りつける。幸一が何度か断ったにもかかわらず、ある日曜日、三浦はゴルフクラブをもって幸一の家に押しかけてくる。そして幸一の妻が断っているのにもめげず、一括払いでなくてもいい、月賦でいいと押し通し、最後は妻が折れるのだった。

この「無理にでも与える」三浦は、「もらってばかりの人」の逆、「もらえない人」としても描かれている。売りつける口実かもしれないが、ゴルフクラブは三浦自身が欲しかったもので、金がなくて手に入れられなかった、という。また、ミチコとの縁談を持ちかけられたときも、本当はミチコを好きで嫁にしたかったが、今は既につきあっている人がいるからもらえない、という。このようにこの映画は、平山や「ひょうたん」の陰で、三浦という「ひょうたん」のアンチテーゼであり、かつ、平山をデフォルメした人物を描いていたようだ。「受け取る側の意思に関わらず、押しつけていく」三浦は、平山の後の決断――娘をほかの男に与える(この映画では、相手の男の気持ちは全く問題にされない)――を強調しながら先取りしている男であり、だからこそミチコが惚れるほどのいい男として描かれているのだろう。

ところで、この映画のタイトルはなぜ「秋刀魚の味」なのだろうか。

その問いにはひょうたんが答えてくれていたように思う。宴会で、茶碗蒸しを食べているひょうたんは、自分が口にしている魚の味を知らない。平山たちにそれがハモだと教えられると、ひょうたんは漢文の先生なので漢字でどう書くかを説明し出す――「さかなへんに豊」。味は知らなかったくせに漢字だけは知っているのである。ひょうたんは、魚に関しては知識はあるが経験はないのだ。

一方、サンマは漢字で書けるかどうかは別にしても、その味を知らない日本人はいないだろう。そして、(今の世の中ではなく)この映画が描く世界の中では、娘はいつか結婚していなくなる、ということを知らない人もいない。そんなことはひょうたんでも知っていた。しかし、ひょうたんはいつか娘を嫁に出さねばならないと知っていたのに、それを知識だけにとどめ、自分自身が味わうことはなかった。その意味で、ひょうたんは鱧だけでなく秋刀魚の味さえ知らなかったのである。

つまりこの映画は、恩師が経験することを利己的に避けた「秋刀魚の味」(娘を嫁にやる経験)を、平山が級友たちと一緒に味わい尽くす、という物語なのだった。

しかし、である。サンマを味わって、それですべてOKだ、ということにはならない。映画の最後、「与えきった」平山はどうなっただろうか。たしかに娘の結婚に関しては「もらってばかり」のひょうたんのようにはならずに済んだ。でも結局、平山も恩師と同じく孤独なのである、敗北を味わうのである。娘の結婚式も、彼にとっては形を変えた「葬式」のようなものだった。「あの戦争に勝っていたら」とむなしく夢想するかつての部下とは違って、平山は覚悟して最後の喪失を受け入れるしかないのであろう。

娘の結婚式の後、平山はバーで酒を飲む。死んだ妻に似た女に酒をついでもらって。だが、「似た女」は平山が抱えている二つの喪失(妻の死、娘の結婚)のすべてを癒やしてくれはしない。家に帰ると、平山は一人、自分でお茶をつぐ。会社の部下がお茶の支度をしてくれていたオープニングの場面から、最後はここに行き着いたのである。ケトルは自分の手で持つべし。自分のことは自分でやらねばならない。この真実もまた、この映画が描いた「秋刀魚の味」の一つなのだろう。

(こんなふうにこの映画を見てしまうのは、平山が劇的に到達したこの真実が、我が家ではとうの昔から当たり前の掟になっているからだろうか。)


2017年4月7日金曜日

『ラ・ラ・ランド』――妄想しちゃダメなの?

誰でも来し方を振り返って、あの時こうなっていたら自分の人生は違っていたな、と想像することもあるはず。あの角を曲がっていなければ交通事故に遭わなかっただろうにとか、あのレストランで彼のプロポーズを断っていなければ今頃ニューヨーク生活だったのにとか、父が生きていれば大学に行けたのにとか。でも普通、そんな妄想に耽ることは時間の無駄ということになっている。過ぎたことを言っても仕方がない、前を向け前を、というわけ。

でもこの映画のラストの数分間は、そんな「妄想」で占められている。もしもあの時、あの人とキスをしていれば。今ではジャズバーを経営するセバスチャンはそう想像し、あるいは有名女優となったミアも想像する。いや、それは単なる想像とは言い切れない。この映画は、もしもあの時二人がキスをしていれば、という現実とは違う別の筋立てを最後に見せてくれる。二人はすでに別の人生を歩んでいる。それぞれに成功している。それはそれでいい人生であるはず。しかしこの映画は、彼らが二人でともに送ったかもしれない別の人生を最後に映像化している。それは妄想とか単なる夢物語とか、まして蛇足とかではなくて、たぶんこの映画が最初から目指していた着地点だったような気がする。

「あのときこうなっていたら」と想像することは空しくない、むしろ、そんな想像には人生と同じ価値がある、いやどちらが本当の「人生」なのか区別することもない、いやそもそも夢と現実の区別などつかないではないか。はじめから最後までこの映画は繰り返しそう主張していた。人生など、ブザーが鳴って始まる映画と同じようなもの。鳴り続けるクラクションを機にセバスチャンとミアが出会うと、そこから「映画のような人生」が始まる。映画なのか人生なのか、判別不能になるように、この映画は仕掛けてくる。

二人の主人公はワーナー・ブラザーズ・スタジオのセットの中を歩く。普通の映画はスタジオのセットを現実の建物として映すけれど、この映画はそれを虚構の建物として映し出す。二人は映画館で映画をみることもある。遅れてきたミアがセバスチャンを探すため、わざわざステージに上って映写機の光を浴びる。このとき、ミアの現実の「人生」が映画のスクリーンに映されている「映画」であることを、私たち観客は強く意識する。またあるとき、セバスチャンはミアに対して「次は映画の中の君に会うことにするよ」とまで言い、そのあとまたブザーが鳴り続ける。普通の映画は、登場人物の人生が現実のものに見えるように努力する。見ている私たちも、そこに描かれる現実や人生を一応現実のものとして信じようとするし、それが出来なければ、のめり込めないつまらない作品として評価する。しかし、この映画は逆で、わざわざ登場人物の「人生」がブザーで区切られるような映画であり虚構であることを繰り返し強調する。

ようするに、これは「映画についての映画」になっている。そこでは原理的に、虚構と現実の区別が付かなくなる。映画内で描かれる「現実」もまた「映画」(虚構)である、という図式によって、私たち観客は登場人物の人生を一応の現実として信じるための基準点を失う。このような揺さぶりはさらに、私たち観客の「現実」にも向けられているのではないだろうか。スタジオの中で演じられている「人生」をセットまで含めて引いて視野に入れたときに、それが「虚構」へ反転するのなら、私たちが現実だと信じている人生も見方を変えれば本当に揺るぎない現実ではなくなるのではないか



そのような問いを抱き始めている私たちに、この映画のラストシーンは感動的に迫ってくる。それ自体虚構であることを強調されていた主人公たちの「人生」に、もう一つ可能だった別の人生――それは普通「妄想」として片付けられる――が併置されたとき、それは少なくとも、二人の主人公が別々に歩んでいる人生が「現実」であるのと同じ程度には「現実」なのではないか、という気がしてくる。映画の中の映画を描くことで、映画内の「現実」を虚構化してしまう『ララランド』は、その勢いで人生の中のもう一つの人生、つまり人生内の非現実(妄想――あのときこうだったら)を現実化しちゃおうと企んだのではないだろうか。二人がキスをしていたら、というもう一つのシナリオは、もう一方のキスをしなかった「現実」こそが虚構であると強調される中で、逆に現実味を帯びてくるのではないだろうか。「妄想」は、必ずしも後ろ向きな駄目なヤツがすることじゃなくって、そもそもそれが創作の源でもあることを思い出させてくれるいい映画でした。

2017年1月16日月曜日

ローマの休日:ゆっくり歩く男

大学生の頃にこの映画を見て、新聞記者になったらプリンセスと巡り会えるという幻想を抱いてしまい、数年後にそれがやはり幻想であったことを身をもって知った苦い思い出があります。

さて、やはりこの映画は最後の場面が印象的です。プリンセスとの会見を終えて記者たちが去った後、一人グレゴリー・ペック演じる新聞記者が、両手をポケットに突っ込んでゆっくり歩いている。出口で立ち止まり、ついさっきまでプリンセスが立っていた宮殿の中を振り返る。しかし、もう誰もいない。また前を向いて歩き出す。

プリンセスと過ごした一日だけがこの記者にとっての思い出ならば、それは別に、相手こそ本当のプリンセスではないものの多くの人が経験をする楽しい思い出と、本質的にはあまり違わないものだったでしょう。しかし、この記者の経験が特別な重みをもって私に迫ってくるのは、翌日に経験する彼の喪失感が最後のシーンで描かれているからだと思います。最後の会見を終えてこの記者が歩き出したとき、彼には二度と彼女と手をつないで歩けないことが、だんだん実感されてきたのではないでしょうか。出口に向かって一歩一歩進むうちに、はっきりはっきり分かってくる。そこにもういるはずはないとは分かっている、それでもひょっとしたらと思って、振り返ってみる。でも、やはり彼女はいない。それは単純な未練とかではなくて(未練というのは、やり直せる可能性を少しでも信じているということでしょうから)、もっと決定的な気持ち、たぶん葬式の帰り道のような気持ちだったんじゃないのかな、と想像してしまいました。そんな暗い見方をしてしまうのは、暗い作風で知られるエドガー・ポーの通った大学に、私が今訪れているからでしょうか。



2015年3月7日土曜日

『川の底からこんにちは』: 泥とウンチが母なのさ

見終えて、この映画を作った人って天才だなと思って、監督の名前(石井裕也)を検索したら、すでに天才扱いされている人でした。私の無知さ加減も「中の下」よりさらに下です。

さて、ズバリこの映画は「出産」の場面から始まっている。ただ、ベッドに横たわる主人公(満島ひかり)が生み出すのは赤ん坊ではなくて、ウンチだ。

一応、これは便秘の治療として描かれてはいる。だが、このあと主人公の職場で、仕事に退屈している同僚が自分たちの状況を「どん詰まり」と表現するとき、便秘の意味がはっきりする。便秘というウンチの詰まり具合の解決が、同時に主人公の「どん詰まり」のジンセイの解決にもなる、ということだろう。しかしそれにしても、なんでウンチなの? どうしてウンチが出れば、ジンセイもOKなの? そんな疑問を抱きながら、私たちは映画を見続ける。

主人公の恋人は職場の課長で、バツイチの子連れだ。さえない男で、自分が企画した玩具も全然売れていない。商品テストで、実際にそのおもちゃを子供に与えて遊ばせてみても盛り上がらず、あげくにオシッコを漏らした子供が、そのおもちゃを主人公に投げつけてくるほどだ。あまりの痛さに、彼女はオシッコの中にへたり込んでしまう。

それは実に変なおもちゃで、白い割烹着らしきものを着た「お母さん」の人形に車が付いていた。そんな白い母を、オシッコ男が主人公に投げつけたのである。わざわざ繰り返したのは、芸の細かいことにラストシーンでこの場面が再現されているからだ。ただそこでは、白い母は白い父に、オシッコ男はオシッコ/ウンチ女に、アレンジされている。

ラストでは、かつて便秘に苦しみ、子供のオシッコにまみれていた主人公が恋人(おもちゃの失敗者)に向けて、亡き父(事業の失敗者)の遺骨を繰り返し投げつける。骨の白さは画面に映っている。そんな「白い父」を投げつけられ、その場にへたり込む男の姿は、かつて職場で「白い母」を投げつけられた主人公に重なっている。つまり、「どん詰まり」と評された職場が、映画のラストに呼び出されているのだ。いったい何のために? それは、最後に「どん詰まりのウンチ」がドバーッとはき出される様子を描くためだ。

つまりラストは、一つの出産の瞬間、新しい誕生の場面なのである。この映画は、ウンチが生命の源であることをさりげなく描いてきたのだった。6歳で母を亡くした主人公は、くみ取り便所からウンチをくみ出して、それを河原に捨てる作業を日課としていた(だがそのウンチが「泥」にしか見えないところが念入りだ。あれはアサリの住む泥でもあるのだ)。父の死期が近いことを知って恋人と実家に戻ってからも、彼女はウンチを河原にまいている。恋人は臭がるだけだ。だが彼女は、そんな河原に咲いていた一輪の花を摘んで父の見舞いに持って行く。いわばウンチの花が、父の生命を少しでも支えてくれることを願うかのように。

父の死と同時に、同じ河原で見つかったのは、季節外れの大きなスイカだった。それは直接的に、ウンチが「生み出した」実だ。そのうえ、かつて主人公は、自分には「スイカのようなおっぱいがないから男に捨てられる」と言っていた。ならば、スイカとは大きなおっぱいでもあるわけだ。まさに、母が子に与える命の源として、おっぱい=スイカ=ウンチの実、が最後に登場したのである。

父の葬儀に集まった人々は、そのスイカを食べている。そしてそんな人々の目の前で、主人公が父の骨を恋人に投げつける場面が繰り広げられたのである。そのとき主人公は、自分のことを「中の下」の人間だと叫ぶ。そんな彼女に、骨を投げつけられている男もまた中の下、いや端的に言ってウンコ野郎なのである(主人公の友人と浮気をし、我が子をも見捨て、主人公の弱った父を突き倒した、ほんとのウンコ野郎なのだ)。

生前、父はウンコ野郎の本質を見抜き、娘に結婚を思いとどまるよう忠告していた。しかし、そのとき娘(主人公)は言ったのだった。

「わたし結婚するわ、逆に!」

エリートではなく、むしろウンコ野郎との結婚から何かが生まれてくる。ちょうど、川底のドロの中からシジミが生まれて育ってくるように。そんな「サトリ」も、決して高尚な台詞で語られたりしない(格好付けたことを言うヤツは、妻に殴り倒される)。ウンチの両義性を論じたロシアの思想家バフチンのラブレー論(だったっけ?)的な主張は、中の下の台詞で表現されてこそなのである。

だからこの話は父の死を通して語られる、主人公/母の再生の物語であるだけではなくて、主人公の生命を養ってきた母としてのシジミの物語でもあり(亡父はシジミ加工工場を経営していた)、さらに、シジミを育ててきた母としての川底の泥(ウンチ的なもの)の物語だった、ということだ。温暖化やダイオキシンの話題がちょくちょく出てくるのはそのためだ。中の下の主人公から、あるいはドロを川底に貯めこんだ地球から、簡単に言えば「ウンチ」から、シジミのような地味ながらも滋養に富んだ食べ物が生まれてくる。それが命の本質なのだ。


この先、シジミ工場の経営者として、そしてよき母として妻として、主人公は生きていく。もう男に逃げられることもないだろう。なぜなら、彼女が撒いたウンチの河原から大きなスイカ(スイカップ)が生まれたとき、もう彼女には男に捨てられる理由とされたあの欠点などなくなってしまったからである。