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2018年7月5日木曜日

『秋刀魚の味』――サンマって漢字で書けなくても味は分かりますよね

妻に先立たれた男はどうすればいいのか。この映画は、そんな問題を抱えた二人の男を描いている。一人は主人公の平山(笠智衆)。もう一人は平山の旧制中学時代の恩師(東野英治郎)で「ひょうたん」と呼ばれる老人。この二人は、一つの深い喪失感(妻の死)に対して、対照的な行動をとる。

二人にはそれぞれ娘がいる。「ひょうたん」は娘を嫁に出さず、もう40を過ぎたと思われる娘と暮らしている。つまり、「妻に死なれてしまった」という問題を、娘を使って解いてしまったのである。ひょうたんはそのことを悔いて「娘をつい便利に使ってしまった」「娘を家内の代わりにして、ついやりそびれた」と嘆く。一方、平山には24才の娘ミチコがいて、物語の初めでは父娘ともに結婚にはまだ早いと思っていたのだが、結婚を勧める友人のアドバイスが効いて、物語はミチコの結婚で締めくくられる。そしてその友人が言う――「おまえ、ひょうたんにならなくてよかったよ」。

だからこの映画は、「与えよ」と主張しているようにも見える。娘をほかの男に与えなかったひょうたんと、与えた平山。

たしかに、映画の細部において、ひょうたんが「もらってばかりの人(与えない人)」であることは繰り返し描かれている。宴会の席では酒をついでもらってがつがつ食べた挙げ句、土産にウィスキーをもらい、後日は教え子たちから2万円までもらっている。金を持参した平山に対し、一応ひょうたんは酒や食事を勧めたりするものの、結局、映画の中でひょうたんが(お礼の言葉以外)誰かに何かを与える場面は一つもなかったと思う。拾った新聞を読んでいる人物として初登場したひょうたんは、「もらう人」であり続けた。

一方、平山は一貫して「与える人」として描かれている。家にドーナツがあれば自分で食わずに息子に与え、近く結婚する部下の女性には封筒にお札を入れて渡す。冷蔵庫を欲しがる息子幸一(佐田啓二)には5万円与え、先述の通りひょうたんには2万円与えた、というか、ほとんど押しつけた。

この「無理にでも押しつける」という点でとても興味深い人物がもう一人いる。幸一の同僚、三浦だ。幸一の妻が三浦を「押し売り」と的確に表現している通り、三浦はゴルフクラブを執拗に幸一に売りつける。幸一が何度か断ったにもかかわらず、ある日曜日、三浦はゴルフクラブをもって幸一の家に押しかけてくる。そして幸一の妻が断っているのにもめげず、一括払いでなくてもいい、月賦でいいと押し通し、最後は妻が折れるのだった。

この「無理にでも与える」三浦は、「もらってばかりの人」の逆、「もらえない人」としても描かれている。売りつける口実かもしれないが、ゴルフクラブは三浦自身が欲しかったもので、金がなくて手に入れられなかった、という。また、ミチコとの縁談を持ちかけられたときも、本当はミチコを好きで嫁にしたかったが、今は既につきあっている人がいるからもらえない、という。このようにこの映画は、平山や「ひょうたん」の陰で、三浦という「ひょうたん」のアンチテーゼであり、かつ、平山をデフォルメした人物を描いていたようだ。「受け取る側の意思に関わらず、押しつけていく」三浦は、平山の後の決断――娘をほかの男に与える(この映画では、相手の男の気持ちは全く問題にされない)――を強調しながら先取りしている男であり、だからこそミチコが惚れるほどのいい男として描かれているのだろう。

ところで、この映画のタイトルはなぜ「秋刀魚の味」なのだろうか。

その問いにはひょうたんが答えてくれていたように思う。宴会で、茶碗蒸しを食べているひょうたんは、自分が口にしている魚の味を知らない。平山たちにそれがハモだと教えられると、ひょうたんは漢文の先生なので漢字でどう書くかを説明し出す――「さかなへんに豊」。味は知らなかったくせに漢字だけは知っているのである。ひょうたんは、魚に関しては知識はあるが経験はないのだ。

一方、サンマは漢字で書けるかどうかは別にしても、その味を知らない日本人はいないだろう。そして、(今の世の中ではなく)この映画が描く世界の中では、娘はいつか結婚していなくなる、ということを知らない人もいない。そんなことはひょうたんでも知っていた。しかし、ひょうたんはいつか娘を嫁に出さねばならないと知っていたのに、それを知識だけにとどめ、自分自身が味わうことはなかった。その意味で、ひょうたんは鱧だけでなく秋刀魚の味さえ知らなかったのである。

つまりこの映画は、恩師が経験することを利己的に避けた「秋刀魚の味」(娘を嫁にやる経験)を、平山が級友たちと一緒に味わい尽くす、という物語なのだった。

しかし、である。サンマを味わって、それですべてOKだ、ということにはならない。映画の最後、「与えきった」平山はどうなっただろうか。たしかに娘の結婚に関しては「もらってばかり」のひょうたんのようにはならずに済んだ。でも結局、平山も恩師と同じく孤独なのである、敗北を味わうのである。娘の結婚式も、彼にとっては形を変えた「葬式」のようなものだった。「あの戦争に勝っていたら」とむなしく夢想するかつての部下とは違って、平山は覚悟して最後の喪失を受け入れるしかないのであろう。

娘の結婚式の後、平山はバーで酒を飲む。死んだ妻に似た女に酒をついでもらって。だが、「似た女」は平山が抱えている二つの喪失(妻の死、娘の結婚)のすべてを癒やしてくれはしない。家に帰ると、平山は一人、自分でお茶をつぐ。会社の部下がお茶の支度をしてくれていたオープニングの場面から、最後はここに行き着いたのである。ケトルは自分の手で持つべし。自分のことは自分でやらねばならない。この真実もまた、この映画が描いた「秋刀魚の味」の一つなのだろう。

(こんなふうにこの映画を見てしまうのは、平山が劇的に到達したこの真実が、我が家ではとうの昔から当たり前の掟になっているからだろうか。)


2017年4月7日金曜日

『ラ・ラ・ランド』――妄想しちゃダメなの?

誰でも来し方を振り返って、あの時こうなっていたら自分の人生は違っていたな、と想像することもあるはず。あの角を曲がっていなければ交通事故に遭わなかっただろうにとか、あのレストランで彼のプロポーズを断っていなければ今頃ニューヨーク生活だったのにとか、父が生きていれば大学に行けたのにとか。でも普通、そんな妄想に耽ることは時間の無駄ということになっている。過ぎたことを言っても仕方がない、前を向け前を、というわけ。

でもこの映画のラストの数分間は、そんな「妄想」で占められている。もしもあの時、あの人とキスをしていれば。今ではジャズバーを経営するセバスチャンはそう想像し、あるいは有名女優となったミアも想像する。いや、それは単なる想像とは言い切れない。この映画は、もしもあの時二人がキスをしていれば、という現実とは違う別の筋立てを最後に見せてくれる。二人はすでに別の人生を歩んでいる。それぞれに成功している。それはそれでいい人生であるはず。しかしこの映画は、彼らが二人でともに送ったかもしれない別の人生を最後に映像化している。それは妄想とか単なる夢物語とか、まして蛇足とかではなくて、たぶんこの映画が最初から目指していた着地点だったような気がする。

「あのときこうなっていたら」と想像することは空しくない、むしろ、そんな想像には人生と同じ価値がある、いやどちらが本当の「人生」なのか区別することもない、いやそもそも夢と現実の区別などつかないではないか。はじめから最後までこの映画は繰り返しそう主張していた。人生など、ブザーが鳴って始まる映画と同じようなもの。鳴り続けるクラクションを機にセバスチャンとミアが出会うと、そこから「映画のような人生」が始まる。映画なのか人生なのか、判別不能になるように、この映画は仕掛けてくる。

二人の主人公はワーナー・ブラザーズ・スタジオのセットの中を歩く。普通の映画はスタジオのセットを現実の建物として映すけれど、この映画はそれを虚構の建物として映し出す。二人は映画館で映画をみることもある。遅れてきたミアがセバスチャンを探すため、わざわざステージに上って映写機の光を浴びる。このとき、ミアの現実の「人生」が映画のスクリーンに映されている「映画」であることを、私たち観客は強く意識する。またあるとき、セバスチャンはミアに対して「次は映画の中の君に会うことにするよ」とまで言い、そのあとまたブザーが鳴り続ける。普通の映画は、登場人物の人生が現実のものに見えるように努力する。見ている私たちも、そこに描かれる現実や人生を一応現実のものとして信じようとするし、それが出来なければ、のめり込めないつまらない作品として評価する。しかし、この映画は逆で、わざわざ登場人物の「人生」がブザーで区切られるような映画であり虚構であることを繰り返し強調する。

ようするに、これは「映画についての映画」になっている。そこでは原理的に、虚構と現実の区別が付かなくなる。映画内で描かれる「現実」もまた「映画」(虚構)である、という図式によって、私たち観客は登場人物の人生を一応の現実として信じるための基準点を失う。このような揺さぶりはさらに、私たち観客の「現実」にも向けられているのではないだろうか。スタジオの中で演じられている「人生」をセットまで含めて引いて視野に入れたときに、それが「虚構」へ反転するのなら、私たちが現実だと信じている人生も見方を変えれば本当に揺るぎない現実ではなくなるのではないか。


そのような問いを抱き始めている私たちに、この映画のラストシーンは感動的に迫ってくる。それ自体虚構であることを強調されていた主人公たちの「人生」に、もう一つ可能だった別の人生――それは普通「妄想」として片付けられる――が併置されたとき、それは少なくとも、二人の主人公が別々に歩んでいる人生が「現実」であるのと同じ程度には「現実」なのではないか、という気がしてくる。映画の中の映画を描くことで、映画内の「現実」を虚構化してしまう『ララランド』は、その勢いで人生の中のもう一つの人生、つまり人生内の非現実(妄想――あのときこうだったら)を現実化しちゃおうと企んだのではないだろうか。二人がキスをしていたら、というもう一つのシナリオは、もう一方のキスをしなかった「現実」こそが虚構であると強調される中で、逆に現実味を帯びてくるのではないだろうか。「妄想」は、必ずしも後ろ向きな駄目なヤツがすることじゃなくって、そもそもそれが創作の源でもあることを思い出させてくれるいい映画でした。

2017年1月16日月曜日

ローマの休日:ゆっくり歩く男

大学生の頃にこの映画を見て、新聞記者になったらプリンセスと巡り会えるという幻想を抱いてしまい、数年後にそれがやはり幻想であったことを身をもって知った苦い思い出があります。

さて、やはりこの映画は最後の場面が印象的です。プリンセスとの会見を終えて記者たちが去った後、一人グレゴリー・ペック演じる新聞記者が、両手をポケットに突っ込んでゆっくり歩いている。出口で立ち止まり、ついさっきまでプリンセスが立っていた宮殿の中を振り返る。しかし、もう誰もいない。また前を向いて歩き出す。

プリンセスと過ごした一日だけがこの記者にとっての思い出ならば、それは別に、相手こそ本当のプリンセスではないものの多くの人が経験をする楽しい思い出と、本質的にはあまり違わないものだったでしょう。しかし、この記者の経験が特別な重みをもって私に迫ってくるのは、翌日に経験する彼の喪失感が最後のシーンで描かれているからだと思います。最後の会見を終えてこの記者が歩き出したとき、彼には二度と彼女と手をつないで歩けないことが、だんだん実感されてきたのではないでしょうか。出口に向かって一歩一歩進むうちに、はっきりはっきり分かってくる。そこにもういるはずはないとは分かっている、それでもひょっとしたらと思って、振り返ってみる。でも、やはり彼女はいない。それは単純な未練とかではなくて(未練というのは、やり直せる可能性を少しでも信じているということでしょうから)、もっと決定的な気持ち、たぶん葬式の帰り道のような気持ちだったんじゃないのかな、と想像してしまいました。そんな暗い見方をしてしまうのは、暗い作風で知られるエドガー・ポーの通った大学に、私が今訪れているからでしょうか。



2015年3月7日土曜日

『川の底からこんにちは』: 泥とウンチが母なのさ

見終えて、この映画を作った人って天才だなと思って、監督の名前(石井裕也)を検索したら、すでに天才扱いされている人でした。私の無知さ加減も「中の下」よりさらに下です。

さて、ズバリこの映画は「出産」の場面から始まっている。ただ、ベッドに横たわる主人公(満島ひかり)が生み出すのは赤ん坊ではなくて、ウンチだ。

一応、これは便秘の治療として描かれてはいる。だが、このあと主人公の職場で、仕事に退屈している同僚が自分たちの状況を「どん詰まり」と表現するとき、便秘の意味がはっきりする。便秘というウンチの詰まり具合の解決が、同時に主人公の「どん詰まり」のジンセイの解決にもなる、ということだろう。しかしそれにしても、なんでウンチなの? どうしてウンチが出れば、ジンセイもOKなの? そんな疑問を抱きながら、私たちは映画を見続ける。

主人公の恋人は職場の課長で、バツイチの子連れだ。さえない男で、自分が企画した玩具も全然売れていない。商品テストで、実際にそのおもちゃを子供に与えて遊ばせてみても盛り上がらず、あげくにオシッコを漏らした子供が、そのおもちゃを主人公に投げつけてくるほどだ。あまりの痛さに、彼女はオシッコの中にへたり込んでしまう。

それは実に変なおもちゃで、白い割烹着らしきものを着た「お母さん」の人形に車が付いていた。そんな白い母を、オシッコ男が主人公に投げつけたのである。わざわざ繰り返したのは、芸の細かいことにラストシーンでこの場面が再現されているからだ。ただそこでは、白い母は白い父に、オシッコ男はオシッコ/ウンチ女に、アレンジされている。

ラストでは、かつて便秘に苦しみ、子供のオシッコにまみれていた主人公が恋人(おもちゃの失敗者)に向けて、亡き父(事業の失敗者)の遺骨を繰り返し投げつける。骨の白さは画面に映っている。そんな「白い父」を投げつけられ、その場にへたり込む男の姿は、かつて職場で「白い母」を投げつけられた主人公に重なっている。つまり、「どん詰まり」と評された職場が、映画のラストに呼び出されているのだ。いったい何のために? それは、最後に「どん詰まりのウンチ」がドバーッとはき出される様子を描くためだ。

つまりラストは、一つの出産の瞬間、新しい誕生の場面なのである。この映画は、ウンチが生命の源であることをさりげなく描いてきたのだった。6歳で母を亡くした主人公は、くみ取り便所からウンチをくみ出して、それを河原に捨てる作業を日課としていた(だがそのウンチが「泥」にしか見えないところが念入りだ。あれはアサリの住む泥でもあるのだ)。父の死期が近いことを知って恋人と実家に戻ってからも、彼女はウンチを河原にまいている。恋人は臭がるだけだ。だが彼女は、そんな河原に咲いていた一輪の花を摘んで父の見舞いに持って行く。いわばウンチの花が、父の生命を少しでも支えてくれることを願うかのように。

父の死と同時に、同じ河原で見つかったのは、季節外れの大きなスイカだった。それは直接的に、ウンチが「生み出した」実だ。そのうえ、かつて主人公は、自分には「スイカのようなおっぱいがないから男に捨てられる」と言っていた。ならば、スイカとは大きなおっぱいでもあるわけだ。まさに、母が子に与える命の源として、おっぱい=スイカ=ウンチの実、が最後に登場したのである。

父の葬儀に集まった人々は、そのスイカを食べている。そしてそんな人々の目の前で、主人公が父の骨を恋人に投げつける場面が繰り広げられたのである。そのとき主人公は、自分のことを「中の下」の人間だと叫ぶ。そんな彼女に、骨を投げつけられている男もまた中の下、いや端的に言ってウンコ野郎なのである(主人公の友人と浮気をし、我が子をも見捨て、主人公の弱った父を突き倒した、ほんとのウンコ野郎なのだ)。

生前、父はウンコ野郎の本質を見抜き、娘に結婚を思いとどまるよう忠告していた。しかし、そのとき娘(主人公)は言ったのだった。

「わたし結婚するわ、逆に!」

エリートではなく、むしろウンコ野郎との結婚から何かが生まれてくる。ちょうど、川底のドロの中からシジミが生まれて育ってくるように。そんな「サトリ」も、決して高尚な台詞で語られたりしない(格好付けたことを言うヤツは、妻に殴り倒される)。ウンチの両義性を論じたロシアの思想家バフチンのラブレー論(だったっけ?)的な主張は、中の下の台詞で表現されてこそなのである。

だからこの話は父の死を通して語られる、主人公/母の再生の物語であるだけではなくて、主人公の生命を養ってきた母としてのシジミの物語でもあり(亡父はシジミ加工工場を経営していた)、さらに、シジミを育ててきた母としての川底の泥(ウンチ的なもの)の物語だった、ということだ。温暖化やダイオキシンの話題がちょくちょく出てくるのはそのためだ。中の下の主人公から、あるいはドロを川底に貯めこんだ地球から、簡単に言えば「ウンチ」から、シジミのような地味ながらも滋養に富んだ食べ物が生まれてくる。それが命の本質なのだ。


この先、シジミ工場の経営者として、そしてよき母として妻として、主人公は生きていく。もう男に逃げられることもないだろう。なぜなら、彼女が撒いたウンチの河原から大きなスイカ(スイカップ)が生まれたとき、もう彼女には男に捨てられる理由とされたあの欠点などなくなってしまったからである。

2014年11月5日水曜日

早春物語――母を弔う娘の物語

原田知世演じる17歳の高校生「瞳」と(今年亡くなった)林隆三演じる42歳のおじさん「梶川」の恋愛(のようなもの)の衝撃にクラクラするのはちょっと待った。

あれが本当に女子高校生と中年男の年の差恋愛なら、こちらの顎が外れてもしかたがないのだが、実際には、瞳の姿を借りた亡き母が、昔の恋人である梶川と再びデートしているにすぎないのだろう。この映画の主役は、原田に憑依している死んだお母さん、とみた。

まぁ、そうとでも考えなければ、瞳が梶川に惚れる理由が分からない。その理由は、一応普通に推測することは出来る。瞳の友人が青学の三年生との恋愛に興じていて、それに瞳も刺激された、ということのようだ。しかし、どんなに友人に煽られたとはいえ、相手としておっさんを選ばなくてもいいだろう。しかも梶川は、上着のポケットに両手を突っ込みながら歩くような、冴えない男である。(やっかみが私の目を厳しくしているのかもしれないが。)一方、梶川と並んで歩く同僚は、ズボンのポケットに手を入れて普通に歩いている。念入りなことに、梶川の車のナンバープレートは「5963」だ。すなわち「ごくろーさん」と肩たたきされるような男なのだ。現実に、彼は会社をクビになる寸前だ。

ではなぜ?
この映画は、瞳と父親の間に、再婚相手の女性が入り込んでくることから始まっている。父は瞳とその女性を残し、出張で家を留守にする。三月の母の命日には戻るように瞳は念を押すが、父は出張を延ばして戻ってこない。結局、瞳は憤慨しながら、将来の継母と共に、母の墓参りを済ます。

これは正しい弔い方ではない、そう瞳は怒っていたのだろう。
4年前に亡くなった母の気持ちが休まる形でなければ、父の再婚は許されるべきではない。瞳は心のどこかでそう感じていたはずだ。そんな瞳の情念が(あるいは娘に取り憑いた母が)、昔の母の恋人、梶川の出現を呼び寄せた。そして自分がこの世に思い残したこと、つまり若き日に破局した梶川との関係を、娘に「清算」してもらう。

瞳も振り返ってそう理解したように、瞳と梶川の出会いは、母と梶川の出会いの再現であった。写真愛好家の瞳は、撮影の邪魔になっている車の持ち主を探していて(ここで5963を連呼する)、梶川と知り合いになる。かつて母も、カメラのシャッターを押してもらうことで梶川と出会っていたのだった。この後、瞳はひたすら母と梶川の経験を追体験していく。箱根へのドライブもそう、母がバイトしていた神田の喫茶店に梶川を呼び出したり、アテネフランセ近くにあった母の寮へも行ってみる。

途中、高校教師と教え子との心中事件がやや唐突に描かれている。それは世相を映し出す派手な事件のように受け取られもしようが、しかし、それも瞳と亡き母の過去と照らして理解されるべき事件だ。亡き母が梶川と別れることになったのは、母の友人の自殺(未遂)がきっかけだった。だから、母の身に降りかかった友人の自殺という大事件を、瞳もまた体験している、ということのようだ。

そういえば、瞳と知り合ってすぐに、梶川は自分の仕事について、3階建てのボロビルでくず鉄を売っている、と説明していた。だが、実際に瞳が訪ねてみると、立派な商社だった。これを中年男の謙遜と受け取るべきだろうか。だから梶川は瞳に惚れられるに値するかっこいい男なのか。いや、そうではない(と思いたい)。たぶん、我知らず梶川は、会社がまだ小さかった頃の20年前の話をしていたのだろう。つまり、梶川は瞳の母親と過ごした時間に、知らぬ間に引き戻されていて、その頃の話をしてしまっていたのだと思う。

最終的には、亡き母がなしえなかったことを瞳は代行する。それは、アメリカに旅立つ梶川を空港で見送ってあげることだった。搭乗直前の梶川は、瞳に「大好きだ」と真顔で言う。してやったり。瞳は、自分に視線を注ぐ梶川に背を向け、立ち去っていく。母を「捨てた」男を、娘が捨て返してやったのだ。空港を歩きながら、瞳は微笑んでいる。母の「復讐」を果たした娘の会心の笑みだ。

こうして、20年前に母がかなえられなかったことを、瞳は創造的に追体験した。それが、娘にしか出来ない、母の正しい弔い方だったのだろう。17歳の三月に、ここまでやり遂げた瞳は、ほんとうにあっぱれ、だな。

だから映画のラストで、瞳の顔を映さずに、「私は過去のある女になった」と音声だけが流れるのは、その台詞が、瞳だけでなく母の声でもあったからかもしれない。少なくとも私たちは、瞳の台詞のその前に「母のように」を補って聞くのである。



2014年9月17日水曜日

『ボックス!』――動物と話せる人はいいね

高校ボクシング部の映画だから、無条件にいいです。
冒頭、「吹き抜ける風を見た」というナレーションを聞いて、観るのをよそうかと思いましたが、映画の結末で同じ台詞が繰り返されたとき、いい一言だなぁと考えを変えました。

あらすじは、ボクシング映画ですから、それは大変な直球です。あしたのジョーでも、ロッキーでも、ジャッキー・チェンとかブルース・リーの映画とか、その手の物語にありがちな粗筋ではあります。しかし、「風を見た」という台詞は、「考えるな、感じろ」(byリー)とか「打つべし、打つべし」(by 段平)とかのレッスンとは全然違うたちのものであることは明らかです。

この映画では、ボクシング部の女子部員(谷村美月)が病気で死にます。映画の中ではありがちなことです。映画の通には減点対象にもなり得るでしょう。でも、部員の死は、やはりこの映画の中心であって、一番大事な出来事のように思います。

葬式では、生前彼女が残した言葉を、母親が部員たちに伝えます。「カブ君の天使になる」みたいな言葉です。これも、ありがちな台詞として減点されてしまうかもしれませんが、でもやはり、大事な台詞です。なぜなら、天使もまた目に見えないものだからです。つまりこの映画は、普通は見えないはずの「吹き抜ける天使を見た」という証言、あるいは少なくとも見える可能性を追求しようとしています。

この映画では、二人の部員が小さい頃から遊んでいた公園のような所が度々映し出されます。そこには、女神のような彫像があって、その伸びた腕の指先にUFOが載っています。そこで二人は、悪童たちから「おまえらUFOなんて信じているのか」と馬鹿にされたこともあります。むろんUFOも、「風」や「天使」の仲間です。普通の人の目には見えないですが、でも、きっといる。少なくとも、二人はそれが見える素質を持っている。

大切なのは、見えないものを見ることだけではありません。同じく、聞こえないものを聞くことも、この映画の細部は、わりとくどく繰り返します。それは、天使の声ではなくて、動物の声として表現されています。

あの「天使」が惚れたカブ君は、ちょっとした不良なので、授業をサボっては屋上で飼われているウサギを眺めていたりします。部室に行けば、そこには犬がいます。高校の部室で犬を飼うって、ありえない設定ですが、やはりそこには犬が必要なわけです。トレーニングで町を走れば、カブ君に向かって犬が尻尾を振っていたりします。

生前の天使がカブ君をデートに誘うとき、カブ君はウサギを見ていました。天使は、カブが試合に勝ったらデートしてあげると言います。動物園でデートするのだと言います。そんな天使を、カブは「ブタ」呼ばわりします。

そう、カブは完全に動物に囲まれています。そもそもカブという愛称自体も、子熊とか、動物の子供を意味する英語のようにも聞こえます。なぜ動物だらけなのでしょう。

その答えは、動物園の場面にあります。そこでカブは、虎と話をした、と言うのです。この映画が普通の格闘技系の映画なら、そのときカブが虎から聞くのは「考えるな、感じろ」的な格闘技の極意であるべきですが、全然そうでありません。むしろ、カブは虎の隠された弱さを打ち明けられました。

だからたぶん、天使のブタも、ただ強くなりそうな子熊(カブ)に惚れたのではないのでしょう。カブが抱えている弱さをカブが口にすることがなくても聞いてしまった。だから、世話をしてやりたくなった、ということのようです。もう彼女は、ボクシング部という「動物園」の飼育員のようでもあります。

ただ、もっと大切なのは逆のベクトルで、ブタ/天使の声を部員が聞くこと、です。試合中、カブは自分のトランクスに縫い付けられたブタのアップリケを見ます。このとき、カブは見えないはずの死者の姿を見、聞こえないはずの死者の声を聞いていたはずです。

最終的に、「ブタ」はカブにとって生きていく糧になります。糧とは、文字通り自分の命を支える食べ物であり、生活の根幹です。映画の最後では、カブが客を相手にお好み焼きのブタ玉を焼いている姿が映し出されます。

というわけで、もしも最初と最後の「風を見た」がカッコつけすぎの台詞だとしたら、「ブタがしゃべった!」でもよかったのでしょう。でも本当に「ブタがしゃべった!」で締めくくったら、ふざけすぎだと観客たちは文句を言うものです。なんであれ、「風を見た」という最後の台詞は「見えるものしか見ず聞こえてくるものしか聞かない世間はうんざりだ」、と一人の高校生が叫んでいるようにも私には聞こえました。

2014年6月8日日曜日

『春との旅』: ミッシングリンクが見つかりました

題名にある「春」とは、主人公の名前だ。もちろん春とは冬のあとに命が芽吹く季節なのだから、この映画自体もまた一つの「誕生」の物語になっている。

あらすじ自体は、誕生とはほど遠い。春の祖父が、自分の面倒を見てくれる親戚や友人を探して、春と共に北海道増毛の故郷から東北へ東京へと旅をする。兄弟友人といっても、漁師として人付き合いもせずに長年暮らしていた祖父なので、十数年ぶりに会う人たちばかり。兄も、姉も、旧友も、弟も、それぞれ事情があって、祖父を引き受ける余裕などない。露骨に邪険にされたりする。しかし、それもこれまでの自分が犯してきた不義理の報いだ。春はそんな祖父が繰り広げる様々な再会の模様を目の当たりにして、ますます祖父と共に暮らしていく決意を固めていく。だが、増毛へと戻る汽車の中で、祖父は眠るように事切れてしまう。

だから、元々は祖父のこれからの生活を模索するために始まった旅ではあったけれど、結末の祖父の死から振り返ってみれば、始まりというより最後の挨拶をする旅になったのだった。そして春にしてみれば、これまで会ったことのなかった親戚に紹介してもらう旅にもなった。

春と祖父が最後に訪ねたのは、春の父親の牧場だった。父と母は離婚していたので、春にとってこれも十何年ぶりの再会だった。その帰り、祖父と春は一軒のそば屋に寄る。ともに蕎麦をすすりながら、祖父は春が生まれる前の父と母の話をしてやる。牧場を経営する父の両親は、貧乏な漁師の娘である母を気に入らない。祖父も牧場へ挨拶に行ったが、結婚に反対され、その帰りに祖父と母が寄ったのがそのそば屋だった。そのとき母は身重だった。春を身ごもっていたのだった。母の涙が蕎麦に落ちていた様子を祖父はまだ覚えている。

そんな話を春は聞くことが出来た。訳あって離婚はしたものの、自分が生まれる前の両親がどれほど愛し合っていたかを春は知る。また、離婚後に母が父に対して感じた強い罪悪感は、強い愛情の裏返しでもあったろうし、父は父で母の面影をもとめ続けていたようだ。牧場で初めて会った父の再婚相手は、なんと母にそっくりだったのだから。

つまりは、祖父にしてみれば、春の父の再婚相手は、今は亡き自分の娘にうりふたつ、ということになる。だからなおさら、その再婚相手が自分のことを「お父さん」と呼んでくれたときに、祖父がどんな気持ちになったかは、察するに余りある。彼女は「お父さん」と呼びながら、一緒に暮らそうとまで言ってくれたのだった。だから、祖父はこの後すぐに死んでしまうけれども、最後の最後に夢のような出来事があったわけだ。いや、彼の目には、今は亡き娘が彼女の姿を借りて、自分を呼んでくれているようにさえ見えたかもしれない。

こうして、祖父にとっては、死出の旅立ちの準備が整った。
一方、春にとっては、これから一人で生きていく準備も整ったはずだ。これまで途切れていた親戚たちとのつながりが(祖父の最後の旅のおかげで)回復し、自分を苦しめ続けてきた父母の関係に対しても、新しい視点を獲得することができた。死んだ母と、死んだ祖父が遺してくれたものを引き継ぎながら、これから春はいい花を咲かせるんだろうな、と思わせる結末だった。