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2013年6月1日土曜日

『ランドリー』――現代版鉢かづき姫の物語


程度の差はあっても、人はそれぞれが檻の中に閉じ込められている。

コインランドリーで働く主人公も、そこで洗濯をする客たちも、それぞれが「囚人」のように見える。

映画が始まって間もなく、コインランドリーに一人の軽量級のボクサーが現れる。試合に負けたようだ。その小さな男は、乾燥機の蓋を開け、中に入り込んでしまう。透明な蓋を通して、そのボクサーは外を見ている。時には乾燥機の中に入ったままカップ麺を食べたりもしている。彼は、いわば「檻」の中で生活を始めてしまったのである。

主人公は小さい頃に頭に怪我をして、知的障害を負っている。彼の面倒を見ていた祖母が、あるとき、こう言ったという。彼の記憶は、氷の中に閉じ込められている、と。

主人公と交流を深める女性もまた、ボクサーや主人公同様、傷を負っている。彼女の場合は、心の傷だ。でもそれもまた現実の傷である。だから、彼女が乾燥機に忘れていった洋服は、血で汚れている。そしてまた彼女も、一人の囚人である。映画の終盤、彼女は罪を犯し、収監されてしまう。彼女も「閉じ込められている人」なのである。

では、彼らはどのように救われるのか。解き放たれるのか。

主人公と彼女は、主人公がヒッチハイクで偶然出会った男の家に転がり込む。その男は、セレモニーで白い鳩を飛ばす仕事をしている。かごに入れられた鳩を大空に飛び立たせる男。つまり、檻に入れられた者を解き放つ仕事人である。

その男は、ある日突然、結婚をするために外国へ行くと宣言して、二人を残して出て行ってしまう。この男は鳩だけでなく自らをも大空へと解き放ったわけである。

主人公は、鳩を飛ばす仕事を手伝ったり、その男の家出を通して、知らぬ間に、解き放つコツをつかんでいく。

だが、もっと重要なのは、彼女との出会いである。彼女は、「氷の中に閉じ込められている」彼の記憶を解き放ってくれたのだから。

あるとき、お話を聞かせてくれと彼女にせがまれ、主人公は祖母から聞いた口笛のうまい船乗りの話を語り出す。荒れた海で船が難破したところまで話をすると、主人公はその先が思い出せなくなってしまう。つまり、そのお話の結末は、主人公の記憶という「氷の中に閉じ込められて」いて、解き放つことができないのだ。しかし、物語結末で、彼女が収監されたこと(すなわち閉じ込められたたこと)をきっかけに、彼は話の続きを思い出す。

彼女が逮捕されたことに絶望して雨の中に倒れた主人公は、いつの間にか、おとぎ話の難破した船乗りの姿に重なっていく。遭難した船乗りは、溺死することなく浜に打ち上げられ、一人の女性に助けられている。そのとき立ち上がった船乗りは、上下とも白い服を着ている。この船乗りは、女性によって解き放たれた白い鳩なのであり、主人公もまた同様なのである。

だからこの直後、映画の中で主人公が出会った人々の姿が次々に映し出されるとき、カメラの視点は、普通の人間の目線ではない。かなり上の方から撮っている。あるいは、空を映し出している。つまり、それは鳥の視点なのである。主人公自身も、解き放たれた白い鳩になったわけだ

刑期を終えた(檻から外に出た)彼女が目にするのは、空を舞う白い鳩の姿だった。その鳩を追うと、主人公がいる。こうして二人は共に解き放たれた者として再会する。そしてその場で、二人は目を閉じて自分たちの結婚式をリアルに想像する。こうして二人が現実の世界からも解放された姿を見て、私たちは、現実もまた一つの解放されるべき「牢獄」であることに気付く。

この物語には、派手なヒーローはいない。登場人物たちは、それぞれが「敗者」であり、小さな存在に見える。しかし、そう見えてしまうとしたら、それは見る側が現実という牢獄に入っているからなのだろう。それ自体一つのおとぎ話のようなこの映画は、確かに私たちを世間一般の成功の尺度から解き放つことに成功しているように思う。