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2011年8月23日火曜日

コクリコ坂から:追記(代理親子の系譜)

映画『コクリコ坂から』について書いた前回に少々付け足しを。
あれを書いたあと、そういえば前にも代理親子について同じようなことを書いた気がして、少々思い出してみた。そしたらやはり、2年前に「すべての手塚漫画は弔辞である」と題して、手塚治虫が繰り返し孤児(養父や養子)について書いていることを指摘していた。

宮崎駿だけでなく、その先輩である手塚治虫もまた代理親子(あるいは養父/養子)のテーマに執着していたわけだ。

たとえば、もしも漫画『鉄腕アトム』のアトムが「息子を亡くした科学者が息子の代理として作ったロボット」であるだけならば、それは別に驚くことではない。その科学者にとってアトムは「養子」だが、アトムにとってはその科学者は「実父」というわけだ。しかし、興味深いのは、このあと手塚がその科学者にアトムを捨てさせることだ。つまり、手塚はアトムにも「実父」を失わせたのだ。そしてアトムはお茶の水博士を代理父とすることになる。こうして『鉄腕アトム』は始まりから二重に代理父子問題を抱えていたのである。

もちろん、代理親子のテーマは宮崎駿や手塚治虫の専売特許ではない。


アメリカ文学では『トム・ソーヤ』や『ハックルベリー』を書いたマークト・ウェインの主人公たちも、なぜか「養子」が多い。トムもおばさんに育てられているし、ハックルベリーも実父から逃れて「代理父」的な逃亡奴隷と旅をする。児童文学の古典とも言える『王子と乞食』も、単に王子と乞食が服を取り替えっこすることでお互いの地位を交換するだけの物語ではない。その裏には、王子の父親(王様)と乞食の父親の物語がある。それぞれの父親に、他人である子供(代理息子)が向き合う物語でもあるのである。


では、なぜ偉大な創作家たちは代理親子関係を執拗に描くのか?


その答えは、たぶんこのブログのどこかにすでに書いてある、と思う。
それが何であったかよく思い出せないので(笑)、もう一度、読み直してみることにしよう。