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2011年8月17日水曜日

コクリコ坂から:死者からの通信はどのように届くか

このお盆に墓前で手を合わせた人も多いだろう。しかし、当たり前のことだが、死者に話しかけても返事は来ない。死者との通信は、いつも一方通行だ。たとえば、この映画で軽く引用されている宮沢賢治(「カルチェラタン」という名のクラブ棟で、文芸部員たちが「小岩井農場」を暗唱していた)も、死んだ妹からの通信がなぜ許されないのか、とほとんど涙ながらに書いていた(「青森挽歌」)。

さて、『コクリコ坂から』はこのような解決不可能な問題への一つの答えだろう。なぜ死者とは通信が許されないのか? いや許されている。それが宮崎駿の答えのようだ。

毎朝、主人公の「海」は死者へ一方通行の信号送り続けている。今は亡き父は船乗りだった。おそらく無駄なことは百も承知で、「海」は坂の上に建つ家の庭に信号旗を掲げ、眼下の海を航行する船に向けて信号を送っている。しかし、この映画では、それに対して「死者」からの返事があるのである。

その意味で、この映画で一番印象深かったのは、主人公の海が一枚の絵を見る場面だった。

ある朝、なかなか起きてこない下宿人の部屋に「海」が入っていく。そこで「海」は一枚の絵を目にする。印象派風に海を描いたその絵の中に、「海」は一つの船を発見する。その船には、自分の信号に応答する信号旗が掲げられている。

こうして、死んだ父からの応答を「海」は受け止めたのである。

描いた当人の下宿人にとっては、その絵が失敗作であったことも興味深い。
「夜描いたから色が違った」みたいなことをその下宿人は言うのである。しかし、その絵を見る側の「海」にとっては、その絵は一種の奇跡に近かったはずだ。

この映画を「失敗作」であると評する人も多いと聞く。しかし、結局は見る側がそこに何を見いだすか、ではないだろうか。「海」のように決定的な欠如を抱えている者は、大きなキャンバスに描かれた絵の中に小さな船を見つけ出すことが出来る。

さて、ここで終わってもいいけれど、今日、朝日新聞の朝刊に小原篤記者による「駿から吾朗への継承物語?」と題する映画評が出ていたので、もう少し蛇足的なことを書きたい。

たしかに、記者のように、父と子という視点からこの映画を見ることも出来る。しかし、この映画が興味深いのは、父と子がそれぞれ「代理」であるところだと思う。

俊の父は実父ではない。船乗りだった父親が遺した赤ん坊を、「海」の父が仲介役となって、今の育ての親が引き取ったのである。その意味で、俊の父は「代理」父である。

また、俊自身も「代理」息子である。というのは、俊を引き取った夫婦は、当時、実の子供を亡くしたばかりだったからである。

代理親子という主題を決定的にしているのは、「海」の家庭事情だ。「海」の母は留学中なので、高2の「海」が下宿屋を切り盛りしている。つまり、子であるはずの「海」が、「代理」母の役割を担っているのである。
「海」の母性は、彼女のあだ名「メル」が暗示してもいる。映画を見ている最中は、私は単に海をフランス語(mer)に訳したあだ名なのだと思っていた。しかし、あとになって代理父子問題について考えていて気づいたのだが、全く同じ発音でmereと書けば「母」という意味になる。級友たちが「海」を「メル」と呼ぶ度、彼女は「母」と呼ばれていたとも考えられるのである。)

同様に、同年代の俊は代理父でもある。「海」の信号旗に船上から応答していたのは、現実には亡父ではなく俊だったからだ。物語の過程で、一時、俊は「海」の父の子供であるかのように描かれていた。俊の育ての親も俊に向かって「最近、ますますおまえは父親に似てきた」とまで言う。こうして、「海」の亡父と俊の姿が重なり合う。

だから問題は、ただの親子関係ではなくて、なぜ「代理」親子が執拗に描かれるか、であるはずだ。

この逆のケースとして興味深いのは、ある段階で、「海」と俊の二人が自分たちは本当の兄妹なのだと思い込んでいた時間帯があることだ。代理ではなく、血を分けた兄妹だと思い込んでいたとき、二人の関係はむしろ「他人」になるのである。急によそよそしくしたり、路面電車の停留所で「告白」したりするのだ。

だとすれば、映画の結末近くで二人が実際の「兄妹」ではないと分かったとき、二人の関係は本当の意味での兄妹に近づくことになるのではないだろうか?他人なのに、血を分けた関係として。恋人同士というより代理の兄妹として。現実の血縁ではなく代理の親子兄弟関係こそが、宮崎にとって何らかの意味で(死者からの通信を可能にするような、というような意味で)恋人同士より高次元の人間関係なのであろう。

そして物語の締めは、二人の前に登場する代理の父親だ。二人の亡父と親友だった船長が、二人を前にして、実に幸せそうにしているのである。おそらくこの船長は独身だろう(笑) このように代理家族が三人集結することで、物語は完結する。

たぶん、この船長は、今は亡き二人の親友からの伝言のようなものとして、「海」と俊を迎え入れているのではないだろうか。だとすれば、「海」と俊の存在自体が死者からの通信なのかもしれない。

実際、映画の中で象徴的に使われていた信号旗は「UW」を意味している。あなた(UYou)は、単独であなたなのではない。あなたは常に二重のダブル・ユー(W)である。では、誰と二重なのか?この映画的には、死者と二重になっているのだろう。その意味で、あなたは常に死者の代役あるいは伝令役なのである。