原爆で友人や父を亡くした主人公(宮沢りえ)が、生き残ってしまったという罪の意識から回復する物語。昨日、私はテレビで見た。
この夏は、東北の地震で多くの人が同じような問題を抱えている。そこへ、意図してか偶然か、NHKは東北出身の原作者井上ひさしの映画を捧げた。ちょうど映画の最後で亡き父の一つの言葉が主人公を快復させたように、今は亡き井上ひさしの作品が同じ役割を果たすよう念じるかのごとく。
こういうところに、芸術作品しか果たせないような役割があるのかもしれない。
医者は肉体の病を治す。しかし、主人公が抱えている「病」は医者には治せない。
罪悪感に苦しむ娘の話を聞いて、父親が「おまえは病にかかっている」と言っていた。
心筋梗塞とかガンとか病にはいろいろあるけれど、死者に対する負い目という「病」もまた、人を死に至らしめることがある。だから、主人公は死んだように生きている。あるとき、自殺をするのは怖いので生きているだけだ、と告白する。こういう人を救うのは誰なのか?また、いかにして救うのか?
映画の中では、表面的には父親がその役割を果たす。今は亡き父親の霊が、娘に好意を寄せる男性と娘の仲を取り持つことで、娘を生の世界へと戻していく。そして「孫が欲しい」という最後の言葉が決定的なものとなって、娘はその男性と生きていくことを決心する。
しかし、その父親が幽霊であり、結局、主人公が作り出した幻、いわばフィクションであることが大切であるように思う。
この映画が描いているのは、主人公が一つの「物語」(フィクション)を生きている姿なのである。
全編を貫く亡父との会話が主人公の「創作」であるだけではない。主人公は図書館に勤め、さらに学生時代には地方の昔話を収集する作業に没頭していたのである。
その中の一つの昔話がとても印象的だ。
昔あるところにおじいさんとおばあさんがいて、あるときおばあさんが若返りの水を飲んで、しわが取れた。そこでおじいさんも早速その水を飲みに行ったのだが、なかなか戻ってこない。そこでおばあさんがおじいさんを捜しに行くと、そこにいたのは赤ん坊だった。そんなあらすじだ。
この物語は二つの意味でとても重要である。
一つは、おじいさんが赤ん坊になっている点で。つまり、人生の終わりの姿(おじいさん)と、人生の最初の姿(赤ん坊)が、奇跡的に接続されている。
この昔話が、映画の最後の「孫が欲しい」という亡父の言葉を生かしている。孫、すなわち赤ん坊とは、おじいさん(亡父)の変身した姿なのである。
この「奇跡」を行えるのは、主人公だけである。その使命に主人公は目覚めた。
自分の命が自分だけのものであるならば、それを捨てるかどうかは自分次第だという理屈も成り立つ。主人公もそう思っていたからこそ、自殺を口にすることもあった。しかし、最終的に主人公は、自分の命が父親からの「もらいもの」であり、それを預かっている自分の責任を知り、孫という形で、それをさらにバトンパスすることを決意する。そんな使命への目覚めが、主人公の病を治したのである。
もう一つ重要な点は、あの「昔話」を、主人公が父親の霊に語って聞かせていることだ。元々は地方の老人から聞いた昔話だが、今度は主人公が父親に話してあげているのである。昔から語り引き継がれている物語の輪の中に、主人公はこのようにして「参加」したのだ。
つまり、昔話もまた、引き継がれていく「命」なのである。
ここに、井上ひさしの慧眼がある。物語こそが、命そのものなのである。
しかも、人は物語ることでしか、罪の意識というフェイタルな病を治せないのである。
その物語は、どんなものでもいいというわけではない。
その物語は、死者と切迫した形で向き合うことによってのみ創造できるたぐいのものだ。
それは、死者とどうしても向き合わざるを得ないという状況で、適当な言い訳に逃げ込んで楽になるのではなく、誠実にその苦痛に耐え続ける者だけが語れるような物語だ。
あるとき、主人公は亡き友(この友は主人公にとってほとんど「もう一人の自分」であり、この意味でも主人公自身が一つの「死」を経験している)への思いを語るうちに、自分が抑圧していたものに気づく。それは亡父への負い目だった。死者(亡き友)の物語を語ることで、主人公はもう一人の死者(亡父)に向きあうことになる。
そして、主人公は亡き父を家に「住まわす」。
さらに、その亡き父と対話(主人公の作ったフィクション)を重ねる中で、主人公は実際に、自分の家に、もう一人の「死者」を住まわすことになる。それは、自分に好意を寄せる男性からの「預かりもの」、原爆に関する資料のことである。
こうして、主人公は、凡夫にとって「大勢」でしかない原爆での死者を、自分の家に住まわせ、プライベートな領域で引き受ける。主人公の「再生」は、このような使命を個人として正面から引き受けることを通して得られたのだ。
死者から遠ざかることではなく、死者を葬り去ることでもなく、まして、死者を忘れさることでもなく、ただ、「死者」を自分の家に住まわすことでのみ「負い目の病」は癒される。