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2020年1月23日木曜日

『ラストレター』――元男子高校生の罪と罰


(2020年1月現在公開中の映画です。ネタバレ注意報発令中ですのでお気を付け下さい。)

自殺した母・未咲が娘に遺した「最後の手紙」を巡る一夏の物語だ。私はこれを、未咲の高校時代の男友達が犯した罪と罰の物語として観た。

さかのぼること25年前(映画『Love Letter』が公開された頃)、高校生だった未咲にラブレターを書きまくる男子生徒、鏡史郎がいた。結局、その恋は実を結ばないのだが(後に咲は、ろくでもない男と駆け落ちしてしまう)、鏡史郎は小説家となって、咲についての小説を書き続ける。第一作『咲』は文学賞を受賞した。その後も鏡史郎は、自分が失った咲の姿を追い求めるかのように、咲を題材にした小説を書き続ける。しかし、まったく売れない。四十を過ぎた今も独身で、塾で高校生に作文を教えて生計を立てながら、安アパートで暮らしている。

こんな彼の人生は、彼にあらかじめ与えられた罰のように私には思われた。鏡史郎には、幸せになる資格がない。結果的に、彼が咲を「殺す」というか「見殺しにする」のだから。

未咲が結婚した相手がひどい男であることを、鏡史郎は知っていた。咲がよこした年賀状で、住所も知っていた。しかし、実際に彼がその住所を訪ね、その男と対決したのは、咲が死んだ後なのだった。鏡史郎は、来るのが遅すぎたのである。様子を見に来るチャンスはあっただろうに。

その男は酔った勢いで「自分が咲を不幸にした」と開き直る。そして鏡史郎に向かって「おまえは咲の人生に何ら影響を与えていないんだよ」とあざ笑う。

これは半分当たっているが、半分は致命的に間違っている。確かに、鏡史郎は咲を救うことは出来なかった。しかし、この酔っ払いの男は、自分の妻だった咲にとって、鏡史郎がどれだけ大きな存在だったのかは知らないのだ。咲が森の中で自死する最後の瞬間まで、その登場を待ち焦がれていた相手だったということを。(映画のラストで明かされる咲の遺書の内容からすると、このように推察できるし、咲の妹も鏡史郎に向かって「悔しいなあ、あなたが姉と結婚してくれていたら」とはっきり言う。)

しかしだからこそ、つまり、咲が死の瞬間まで鏡史郎のことを思っていたからこそ、鏡史郎の罪は重いのだ。彼だけが、咲の自殺を防げただろうに、彼は売れない小説をのんびり書いていたのである。

あるとき、咲の娘は憤る。母は自殺したのに「病死」と世間には伝えられた。母の死の真実を隠したがる人々を娘は責める。「なぜ隠さなきゃいけないの。お母さんはなにも悪いことをしていないのに」と訴える。

しかし、この娘は、怒りをぶつける相手を間違えている。自殺を隠したくなる人々の気持ちを、この子は理解せねばならない。大人が母の死の真相を隠した一つの理由は、真実を知れば傷つく人がいるからだろう。遺された人々は、程度の違いこそあれ、それぞれが罪の意識を抱えているものだ。誰だって自分や他人の罪悪感を刺激したくない。

だが、この映画の中で、そのような逃避を許されてはならない者が一人だけいる。それは鏡史郎だ。彼だけが、死んだ咲に対して、本当の責任を負っている。

だから、娘が怒りをぶつける相手は鏡史郎であるはずだ。しかし、娘も咲の妹も、彼に優しい。恐らくそれは、彼が一番苦しむべき人間であることを知っているからかもしれない。実際、すでに鏡史郎は、自らの罪に対する罰を前払いするかのように、暗い人生を安アパートで送っている。

鏡史郎を演じる福山雅治が、映画の中でまったく輝いていないのはそのためだろう。普段の福山のようにさわやかに輝いてはならないのだ。彼はただの貧乏作家ではなく不幸な罪人を演じているのだから。

ただ、映画の中で、鏡史郎自身は自分の罪をあまり自覚していないようだ。この映画は、鏡史郎の罪の意識をはっきり描くことがない。たぶん、理由は簡単だ。

鏡史郎が、まだ咲の「最後の手紙」を読んでいないからだ。

結末で娘は母の遺書を読む。そこで映画は終わる。でも私は、そのあとの鏡史郎のことを想像してしまう。彼も遺書を読むだろう。そのとき、咲にとっての自分の存在の意味を知り、自らの責任を思い知るはずだ。同時に、これからの自分には、これまで以上に苦しい人生が待っていると悟るだろう。決して償いきれぬ罪を自分が抱えていると知り、その罪とともに生きるしかないのだから。しかし、彼が誠実かつ選ばれた男であるならば、その重荷に耐えていくしかない。それが彼に残された唯一の誇り高き償いの道だ。

 だが、それはまた別の話である。それは「手紙を読むまで気づかない」男・鏡史郎の第二話だ。第一話は、高校時代に未咲のの手紙を読むまで、妹の恋心に気づかなかった罪なほど鈍い男・鏡史郎の物語だ(それが「ラストレター」の物語だった)。あのときは妹に「ごめん、全然気がつかなかった」と謝って済んだ。でも今度は、姉に「ごめん、全然気がつかなかった」では済まされないのである。相手はもうこの世にいないのだから。

 もう、どうしようもない。しかし、もしも遺された小説家・鏡史郎に出来ることがあるとすれば、未咲について、いや、未咲と共に、書き続けることだろう。かつて高校時代、実際に二人で一つの作文を仕上げた時のように。だからラストで、その作文こそが未咲の遺書の中身であったことが明かされるのは、その内容が娘を励ますものだからというよりも、作家である鏡史郎に向け、死んだ自分と共にこれからは書くようにと、鏡史郎が進むべき道を示すためだったようにも見えるのである。
(そうでしょ?)

2020年1月11日土曜日

大豆の思い出:『ユ・ヨルの音楽アルバム』(Tune in for Love/유열의 음악앨범)


なぜか私はこの映画をNetflixで繰り返し見てしまう。

主人公の男女の名前には、何かある。

男は、1994101日朝9時ちょっと前にパン屋に現れる。店で働く女子学生に何が欲しいかと問われると、大豆食品なら何でもいい、と答える。豆腐でも、豆乳でも。その後ずっと、この映画の中で、この青年はときどきTofuと呼ばれる。
一方、パン屋の女性の名前はMi-suなのだが、後に彼女のメアドがMisoooあることがスクリーンに映るので、彼女自身も大豆食品である「味噌」なのだと分かる。
その3年後、青年の兵役が始まるというので、連絡を取るために彼女が彼にメアドを作ってあげる。それは「dubu1001」だった。Dubuとは韓国語で豆腐なので、「101日の豆腐」ぐらいの意味だ。

結局、二人は10年にわたって、別れたり再会したりを繰り返すのだが、最後に、またもや朝9時、ラジオのDJユ・ヨルの言葉が、二人を決定的に結びつけることになる。
その言葉とは、「人の心の中で大切にしている名前は、日記みたいなもので、人生の記録そのものだ」というものだった。
そしてラジオで自分の名前が呼ばれるのを聞いたMi-suは、それがTofuのリクエストであったことを悟り、全てを投げ出してTofuの元へと走って行く。

これは物語の筋書きとはほとんど関係ないことだが、この映画はラストシーンで「名前が大切なんだ」とはっきり言っている。どうやら、二人の男女の名前が大豆つながりであることを、見ている人に気づいてもらいたがっているようなのである。DJが言うように「心の中の名前こそが思い出そのもの」なのならば、二人の大豆的な名前は、それを心に刻んでいる人(おそらく脚本家)にとって、とても大切な思い出なのだろう。

それは一体どんな思い出だったのだろうか。はっきりは分からない。けれど、なにか大豆に関わる、遠い昔の101日の朝に始まった思い出なのだろう。
そんな映画を、なんだかよく分からないけれど、私は繰り返し見てしまうのだった。