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2017年4月7日金曜日

『ラ・ラ・ランド』――妄想しちゃダメなの?

誰でも来し方を振り返って、あの時こうなっていたら自分の人生は違っていたな、と想像することもあるはず。あの角を曲がっていなければ交通事故に遭わなかっただろうにとか、あのレストランで彼のプロポーズを断っていなければ今頃ニューヨーク生活だったのにとか、父が生きていれば大学に行けたのにとか。でも普通、そんな妄想に耽ることは時間の無駄ということになっている。過ぎたことを言っても仕方がない、前を向け前を、というわけ。

でもこの映画のラストの数分間は、そんな「妄想」で占められている。もしもあの時、あの人とキスをしていれば。今ではジャズバーを経営するセバスチャンはそう想像し、あるいは有名女優となったミアも想像する。いや、それは単なる想像とは言い切れない。この映画は、もしもあの時二人がキスをしていれば、という現実とは違う別の筋立てを最後に見せてくれる。二人はすでに別の人生を歩んでいる。それぞれに成功している。それはそれでいい人生であるはず。しかしこの映画は、彼らが二人でともに送ったかもしれない別の人生を最後に映像化している。それは妄想とか単なる夢物語とか、まして蛇足とかではなくて、たぶんこの映画が最初から目指していた着地点だったような気がする。

「あのときこうなっていたら」と想像することは空しくない、むしろ、そんな想像には人生と同じ価値がある、いやどちらが本当の「人生」なのか区別することもない、いやそもそも夢と現実の区別などつかないではないか。はじめから最後までこの映画は繰り返しそう主張していた。人生など、ブザーが鳴って始まる映画と同じようなもの。鳴り続けるクラクションを機にセバスチャンとミアが出会うと、そこから「映画のような人生」が始まる。映画なのか人生なのか、判別不能になるように、この映画は仕掛けてくる。

二人の主人公はワーナー・ブラザーズ・スタジオのセットの中を歩く。普通の映画はスタジオのセットを現実の建物として映すけれど、この映画はそれを虚構の建物として映し出す。二人は映画館で映画をみることもある。遅れてきたミアがセバスチャンを探すため、わざわざステージに上って映写機の光を浴びる。このとき、ミアの現実の「人生」が映画のスクリーンに映されている「映画」であることを、私たち観客は強く意識する。またあるとき、セバスチャンはミアに対して「次は映画の中の君に会うことにするよ」とまで言い、そのあとまたブザーが鳴り続ける。普通の映画は、登場人物の人生が現実のものに見えるように努力する。見ている私たちも、そこに描かれる現実や人生を一応現実のものとして信じようとするし、それが出来なければ、のめり込めないつまらない作品として評価する。しかし、この映画は逆で、わざわざ登場人物の「人生」がブザーで区切られるような映画であり虚構であることを繰り返し強調する。

ようするに、これは「映画についての映画」になっている。そこでは原理的に、虚構と現実の区別が付かなくなる。映画内で描かれる「現実」もまた「映画」(虚構)である、という図式によって、私たち観客は登場人物の人生を一応の現実として信じるための基準点を失う。このような揺さぶりはさらに、私たち観客の「現実」にも向けられているのではないだろうか。スタジオの中で演じられている「人生」をセットまで含めて引いて視野に入れたときに、それが「虚構」へ反転するのなら、私たちが現実だと信じている人生も見方を変えれば本当に揺るぎない現実ではなくなるのではないか



そのような問いを抱き始めている私たちに、この映画のラストシーンは感動的に迫ってくる。それ自体虚構であることを強調されていた主人公たちの「人生」に、もう一つ可能だった別の人生――それは普通「妄想」として片付けられる――が併置されたとき、それは少なくとも、二人の主人公が別々に歩んでいる人生が「現実」であるのと同じ程度には「現実」なのではないか、という気がしてくる。映画の中の映画を描くことで、映画内の「現実」を虚構化してしまう『ララランド』は、その勢いで人生の中のもう一つの人生、つまり人生内の非現実(妄想――あのときこうだったら)を現実化しちゃおうと企んだのではないだろうか。二人がキスをしていたら、というもう一つのシナリオは、もう一方のキスをしなかった「現実」こそが虚構であると強調される中で、逆に現実味を帯びてくるのではないだろうか。「妄想」は、必ずしも後ろ向きな駄目なヤツがすることじゃなくって、そもそもそれが創作の源でもあることを思い出させてくれるいい映画でした。

2017年1月16日月曜日

ローマの休日:ゆっくり歩く男

大学生の頃にこの映画を見て、新聞記者になったらプリンセスと巡り会えるという幻想を抱いてしまい、数年後にそれがやはり幻想であったことを身をもって知った苦い思い出があります。

さて、やはりこの映画は最後の場面が印象的です。プリンセスとの会見を終えて記者たちが去った後、一人グレゴリー・ペック演じる新聞記者が、両手をポケットに突っ込んでゆっくり歩いている。出口で立ち止まり、ついさっきまでプリンセスが立っていた宮殿の中を振り返る。しかし、もう誰もいない。また前を向いて歩き出す。

プリンセスと過ごした一日だけがこの記者にとっての思い出ならば、それは別に、相手こそ本当のプリンセスではないものの多くの人が経験をする楽しい思い出と、本質的にはあまり違わないものだったでしょう。しかし、この記者の経験が特別な重みをもって私に迫ってくるのは、翌日に経験する彼の喪失感が最後のシーンで描かれているからだと思います。最後の会見を終えてこの記者が歩き出したとき、彼には二度と彼女と手をつないで歩けないことが、だんだん実感されてきたのではないでしょうか。出口に向かって一歩一歩進むうちに、はっきりはっきり分かってくる。そこにもういるはずはないとは分かっている、それでもひょっとしたらと思って、振り返ってみる。でも、やはり彼女はいない。それは単純な未練とかではなくて(未練というのは、やり直せる可能性を少しでも信じているということでしょうから)、もっと決定的な気持ち、たぶん葬式の帰り道のような気持ちだったんじゃないのかな、と想像してしまいました。そんな暗い見方をしてしまうのは、暗い作風で知られるエドガー・ポーの通った大学に、私が今訪れているからでしょうか。