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2014年9月17日水曜日

『ボックス!』――動物と話せる人はいいね

高校ボクシング部の映画だから、無条件にいいです。
冒頭、「吹き抜ける風を見た」というナレーションを聞いて、観るのをよそうかと思いましたが、映画の結末で同じ台詞が繰り返されたとき、いい一言だなぁと考えを変えました。

あらすじは、ボクシング映画ですから、それは大変な直球です。あしたのジョーでも、ロッキーでも、ジャッキー・チェンとかブルース・リーの映画とか、その手の物語にありがちな粗筋ではあります。しかし、「風を見た」という台詞は、「考えるな、感じろ」(byリー)とか「打つべし、打つべし」(by 段平)とかのレッスンとは全然違うたちのものであることは明らかです。

この映画では、ボクシング部の女子部員(谷村美月)が病気で死にます。映画の中ではありがちなことです。映画の通には減点対象にもなり得るでしょう。でも、部員の死は、やはりこの映画の中心であって、一番大事な出来事のように思います。

葬式では、生前彼女が残した言葉を、母親が部員たちに伝えます。「カブ君の天使になる」みたいな言葉です。これも、ありがちな台詞として減点されてしまうかもしれませんが、でもやはり、大事な台詞です。なぜなら、天使もまた目に見えないものだからです。つまりこの映画は、普通は見えないはずの「吹き抜ける天使を見た」という証言、あるいは少なくとも見える可能性を追求しようとしています。

この映画では、二人の部員が小さい頃から遊んでいた公園のような所が度々映し出されます。そこには、女神のような彫像があって、その伸びた腕の指先にUFOが載っています。そこで二人は、悪童たちから「おまえらUFOなんて信じているのか」と馬鹿にされたこともあります。むろんUFOも、「風」や「天使」の仲間です。普通の人の目には見えないですが、でも、きっといる。少なくとも、二人はそれが見える素質を持っている。

大切なのは、見えないものを見ることだけではありません。同じく、聞こえないものを聞くことも、この映画の細部は、わりとくどく繰り返します。それは、天使の声ではなくて、動物の声として表現されています。

あの「天使」が惚れたカブ君は、ちょっとした不良なので、授業をサボっては屋上で飼われているウサギを眺めていたりします。部室に行けば、そこには犬がいます。高校の部室で犬を飼うって、ありえない設定ですが、やはりそこには犬が必要なわけです。トレーニングで町を走れば、カブ君に向かって犬が尻尾を振っていたりします。

生前の天使がカブ君をデートに誘うとき、カブ君はウサギを見ていました。天使は、カブが試合に勝ったらデートしてあげると言います。動物園でデートするのだと言います。そんな天使を、カブは「ブタ」呼ばわりします。

そう、カブは完全に動物に囲まれています。そもそもカブという愛称自体も、子熊とか、動物の子供を意味する英語のようにも聞こえます。なぜ動物だらけなのでしょう。

その答えは、動物園の場面にあります。そこでカブは、虎と話をした、と言うのです。この映画が普通の格闘技系の映画なら、そのときカブが虎から聞くのは「考えるな、感じろ」的な格闘技の極意であるべきですが、全然そうでありません。むしろ、カブは虎の隠された弱さを打ち明けられました。

だからたぶん、天使のブタも、ただ強くなりそうな子熊(カブ)に惚れたのではないのでしょう。カブが抱えている弱さをカブが口にすることがなくても聞いてしまった。だから、世話をしてやりたくなった、ということのようです。もう彼女は、ボクシング部という「動物園」の飼育員のようでもあります。

ただ、もっと大切なのは逆のベクトルで、ブタ/天使の声を部員が聞くこと、です。試合中、カブは自分のトランクスに縫い付けられたブタのアップリケを見ます。このとき、カブは見えないはずの死者の姿を見、聞こえないはずの死者の声を聞いていたはずです。

最終的に、「ブタ」はカブにとって生きていく糧になります。糧とは、文字通り自分の命を支える食べ物であり、生活の根幹です。映画の最後では、カブが客を相手にお好み焼きのブタ玉を焼いている姿が映し出されます。

というわけで、もしも最初と最後の「風を見た」がカッコつけすぎの台詞だとしたら、「ブタがしゃべった!」でもよかったのでしょう。でも本当に「ブタがしゃべった!」で締めくくったら、ふざけすぎだと観客たちは文句を言うものです。なんであれ、「風を見た」という最後の台詞は「見えるものしか見ず聞こえてくるものしか聞かない世間はうんざりだ」、と一人の高校生が叫んでいるようにも私には聞こえました。