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2015年3月7日土曜日

『川の底からこんにちは』: 泥とウンチが母なのさ

見終えて、この映画を作った人って天才だなと思って、監督の名前(石井裕也)を検索したら、すでに天才扱いされている人でした。私の無知さ加減も「中の下」よりさらに下です。

さて、ズバリこの映画は「出産」の場面から始まっている。ただ、ベッドに横たわる主人公(満島ひかり)が生み出すのは赤ん坊ではなくて、ウンチだ。

一応、これは便秘の治療として描かれてはいる。だが、このあと主人公の職場で、仕事に退屈している同僚が自分たちの状況を「どん詰まり」と表現するとき、便秘の意味がはっきりする。便秘というウンチの詰まり具合の解決が、同時に主人公の「どん詰まり」のジンセイの解決にもなる、ということだろう。しかしそれにしても、なんでウンチなの? どうしてウンチが出れば、ジンセイもOKなの? そんな疑問を抱きながら、私たちは映画を見続ける。

主人公の恋人は職場の課長で、バツイチの子連れだ。さえない男で、自分が企画した玩具も全然売れていない。商品テストで、実際にそのおもちゃを子供に与えて遊ばせてみても盛り上がらず、あげくにオシッコを漏らした子供が、そのおもちゃを主人公に投げつけてくるほどだ。あまりの痛さに、彼女はオシッコの中にへたり込んでしまう。

それは実に変なおもちゃで、白い割烹着らしきものを着た「お母さん」の人形に車が付いていた。そんな白い母を、オシッコ男が主人公に投げつけたのである。わざわざ繰り返したのは、芸の細かいことにラストシーンでこの場面が再現されているからだ。ただそこでは、白い母は白い父に、オシッコ男はオシッコ/ウンチ女に、アレンジされている。

ラストでは、かつて便秘に苦しみ、子供のオシッコにまみれていた主人公が恋人(おもちゃの失敗者)に向けて、亡き父(事業の失敗者)の遺骨を繰り返し投げつける。骨の白さは画面に映っている。そんな「白い父」を投げつけられ、その場にへたり込む男の姿は、かつて職場で「白い母」を投げつけられた主人公に重なっている。つまり、「どん詰まり」と評された職場が、映画のラストに呼び出されているのだ。いったい何のために? それは、最後に「どん詰まりのウンチ」がドバーッとはき出される様子を描くためだ。

つまりラストは、一つの出産の瞬間、新しい誕生の場面なのである。この映画は、ウンチが生命の源であることをさりげなく描いてきたのだった。6歳で母を亡くした主人公は、くみ取り便所からウンチをくみ出して、それを河原に捨てる作業を日課としていた(だがそのウンチが「泥」にしか見えないところが念入りだ。あれはアサリの住む泥でもあるのだ)。父の死期が近いことを知って恋人と実家に戻ってからも、彼女はウンチを河原にまいている。恋人は臭がるだけだ。だが彼女は、そんな河原に咲いていた一輪の花を摘んで父の見舞いに持って行く。いわばウンチの花が、父の生命を少しでも支えてくれることを願うかのように。

父の死と同時に、同じ河原で見つかったのは、季節外れの大きなスイカだった。それは直接的に、ウンチが「生み出した」実だ。そのうえ、かつて主人公は、自分には「スイカのようなおっぱいがないから男に捨てられる」と言っていた。ならば、スイカとは大きなおっぱいでもあるわけだ。まさに、母が子に与える命の源として、おっぱい=スイカ=ウンチの実、が最後に登場したのである。

父の葬儀に集まった人々は、そのスイカを食べている。そしてそんな人々の目の前で、主人公が父の骨を恋人に投げつける場面が繰り広げられたのである。そのとき主人公は、自分のことを「中の下」の人間だと叫ぶ。そんな彼女に、骨を投げつけられている男もまた中の下、いや端的に言ってウンコ野郎なのである(主人公の友人と浮気をし、我が子をも見捨て、主人公の弱った父を突き倒した、ほんとのウンコ野郎なのだ)。

生前、父はウンコ野郎の本質を見抜き、娘に結婚を思いとどまるよう忠告していた。しかし、そのとき娘(主人公)は言ったのだった。

「わたし結婚するわ、逆に!」

エリートではなく、むしろウンコ野郎との結婚から何かが生まれてくる。ちょうど、川底のドロの中からシジミが生まれて育ってくるように。そんな「サトリ」も、決して高尚な台詞で語られたりしない(格好付けたことを言うヤツは、妻に殴り倒される)。ウンチの両義性を論じたロシアの思想家バフチンのラブレー論(だったっけ?)的な主張は、中の下の台詞で表現されてこそなのである。

だからこの話は父の死を通して語られる、主人公/母の再生の物語であるだけではなくて、主人公の生命を養ってきた母としてのシジミの物語でもあり(亡父はシジミ加工工場を経営していた)、さらに、シジミを育ててきた母としての川底の泥(ウンチ的なもの)の物語だった、ということだ。温暖化やダイオキシンの話題がちょくちょく出てくるのはそのためだ。中の下の主人公から、あるいはドロを川底に貯めこんだ地球から、簡単に言えば「ウンチ」から、シジミのような地味ながらも滋養に富んだ食べ物が生まれてくる。それが命の本質なのだ。


この先、シジミ工場の経営者として、そしてよき母として妻として、主人公は生きていく。もう男に逃げられることもないだろう。なぜなら、彼女が撒いたウンチの河原から大きなスイカ(スイカップ)が生まれたとき、もう彼女には男に捨てられる理由とされたあの欠点などなくなってしまったからである。