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2014年11月5日水曜日

早春物語――母を弔う娘の物語

原田知世演じる17歳の高校生「瞳」と(今年亡くなった)林隆三演じる42歳のおじさん「梶川」の恋愛(のようなもの)の衝撃にクラクラするのはちょっと待った。

あれが本当に女子高校生と中年男の年の差恋愛なら、こちらの顎が外れてもしかたがないのだが、実際には、瞳の姿を借りた亡き母が、昔の恋人である梶川と再びデートしているにすぎないのだろう。この映画の主役は、原田に憑依している死んだお母さん、とみた。

まぁ、そうとでも考えなければ、瞳が梶川に惚れる理由が分からない。その理由は、一応普通に推測することは出来る。瞳の友人が青学の三年生との恋愛に興じていて、それに瞳も刺激された、ということのようだ。しかし、どんなに友人に煽られたとはいえ、相手としておっさんを選ばなくてもいいだろう。しかも梶川は、上着のポケットに両手を突っ込みながら歩くような、冴えない男である。(やっかみが私の目を厳しくしているのかもしれないが。)一方、梶川と並んで歩く同僚は、ズボンのポケットに手を入れて普通に歩いている。念入りなことに、梶川の車のナンバープレートは「5963」だ。すなわち「ごくろーさん」と肩たたきされるような男なのだ。現実に、彼は会社をクビになる寸前だ。

ではなぜ?
この映画は、瞳と父親の間に、再婚相手の女性が入り込んでくることから始まっている。父は瞳とその女性を残し、出張で家を留守にする。三月の母の命日には戻るように瞳は念を押すが、父は出張を延ばして戻ってこない。結局、瞳は憤慨しながら、将来の継母と共に、母の墓参りを済ます。

これは正しい弔い方ではない、そう瞳は怒っていたのだろう。
4年前に亡くなった母の気持ちが休まる形でなければ、父の再婚は許されるべきではない。瞳は心のどこかでそう感じていたはずだ。そんな瞳の情念が(あるいは娘に取り憑いた母が)、昔の母の恋人、梶川の出現を呼び寄せた。そして自分がこの世に思い残したこと、つまり若き日に破局した梶川との関係を、娘に「清算」してもらう。

瞳も振り返ってそう理解したように、瞳と梶川の出会いは、母と梶川の出会いの再現であった。写真愛好家の瞳は、撮影の邪魔になっている車の持ち主を探していて(ここで5963を連呼する)、梶川と知り合いになる。かつて母も、カメラのシャッターを押してもらうことで梶川と出会っていたのだった。この後、瞳はひたすら母と梶川の経験を追体験していく。箱根へのドライブもそう、母がバイトしていた神田の喫茶店に梶川を呼び出したり、アテネフランセ近くにあった母の寮へも行ってみる。

途中、高校教師と教え子との心中事件がやや唐突に描かれている。それは世相を映し出す派手な事件のように受け取られもしようが、しかし、それも瞳と亡き母の過去と照らして理解されるべき事件だ。亡き母が梶川と別れることになったのは、母の友人の自殺(未遂)がきっかけだった。だから、母の身に降りかかった友人の自殺という大事件を、瞳もまた体験している、ということのようだ。

そういえば、瞳と知り合ってすぐに、梶川は自分の仕事について、3階建てのボロビルでくず鉄を売っている、と説明していた。だが、実際に瞳が訪ねてみると、立派な商社だった。これを中年男の謙遜と受け取るべきだろうか。だから梶川は瞳に惚れられるに値するかっこいい男なのか。いや、そうではない(と思いたい)。たぶん、我知らず梶川は、会社がまだ小さかった頃の20年前の話をしていたのだろう。つまり、梶川は瞳の母親と過ごした時間に、知らぬ間に引き戻されていて、その頃の話をしてしまっていたのだと思う。

最終的には、亡き母がなしえなかったことを瞳は代行する。それは、アメリカに旅立つ梶川を空港で見送ってあげることだった。搭乗直前の梶川は、瞳に「大好きだ」と真顔で言う。してやったり。瞳は、自分に視線を注ぐ梶川に背を向け、立ち去っていく。母を「捨てた」男を、娘が捨て返してやったのだ。空港を歩きながら、瞳は微笑んでいる。母の「復讐」を果たした娘の会心の笑みだ。

こうして、20年前に母がかなえられなかったことを、瞳は創造的に追体験した。それが、娘にしか出来ない、母の正しい弔い方だったのだろう。17歳の三月に、ここまでやり遂げた瞳は、ほんとうにあっぱれ、だな。

だから映画のラストで、瞳の顔を映さずに、「私は過去のある女になった」と音声だけが流れるのは、その台詞が、瞳だけでなく母の声でもあったからかもしれない。少なくとも私たちは、瞳の台詞のその前に「母のように」を補って聞くのである。