程度の差はあっても、人はそれぞれが檻の中に閉じ込められている。
コインランドリーで働く主人公も、そこで洗濯をする客たちも、それぞれが「囚人」のように見える。
映画が始まって間もなく、コインランドリーに一人の軽量級のボクサーが現れる。試合に負けたようだ。その小さな男は、乾燥機の蓋を開け、中に入り込んでしまう。透明な蓋を通して、そのボクサーは外を見ている。時には乾燥機の中に入ったままカップ麺を食べたりもしている。彼は、いわば「檻」の中で生活を始めてしまったのである。
主人公は小さい頃に頭に怪我をして、知的障害を負っている。彼の面倒を見ていた祖母が、あるとき、こう言ったという。彼の記憶は、氷の中に閉じ込められている、と。
主人公と交流を深める女性もまた、ボクサーや主人公同様、傷を負っている。彼女の場合は、心の傷だ。でもそれもまた現実の傷である。だから、彼女が乾燥機に忘れていった洋服は、血で汚れている。そしてまた彼女も、一人の囚人である。映画の終盤、彼女は罪を犯し、収監されてしまう。彼女も「閉じ込められている人」なのである。
では、彼らはどのように救われるのか。解き放たれるのか。
主人公と彼女は、主人公がヒッチハイクで偶然出会った男の家に転がり込む。その男は、セレモニーで白い鳩を飛ばす仕事をしている。かごに入れられた鳩を大空に飛び立たせる男。つまり、檻に入れられた者を解き放つ仕事人である。
その男は、ある日突然、結婚をするために外国へ行くと宣言して、二人を残して出て行ってしまう。この男は鳩だけでなく自らをも大空へと解き放ったわけである。
主人公は、鳩を飛ばす仕事を手伝ったり、その男の家出を通して、知らぬ間に、解き放つコツをつかんでいく。
だが、もっと重要なのは、彼女との出会いである。彼女は、「氷の中に閉じ込められている」彼の記憶を解き放ってくれたのだから。
あるとき、お話を聞かせてくれと彼女にせがまれ、主人公は祖母から聞いた口笛のうまい船乗りの話を語り出す。荒れた海で船が難破したところまで話をすると、主人公はその先が思い出せなくなってしまう。つまり、そのお話の結末は、主人公の記憶という「氷の中に閉じ込められて」いて、解き放つことができないのだ。しかし、物語結末で、彼女が収監されたこと(すなわち閉じ込められたたこと)をきっかけに、彼は話の続きを思い出す。
彼女が逮捕されたことに絶望して雨の中に倒れた主人公は、いつの間にか、おとぎ話の難破した船乗りの姿に重なっていく。遭難した船乗りは、溺死することなく浜に打ち上げられ、一人の女性に助けられている。そのとき立ち上がった船乗りは、上下とも白い服を着ている。この船乗りは、女性によって解き放たれた白い鳩なのであり、主人公もまた同様なのである。
だからこの直後、映画の中で主人公が出会った人々の姿が次々に映し出されるとき、カメラの視点は、普通の人間の目線ではない。かなり上の方から撮っている。あるいは、空を映し出している。つまり、それは鳥の視点なのである。主人公自身も、解き放たれた白い鳩になったわけだ。
刑期を終えた(檻から外に出た)彼女が目にするのは、空を舞う白い鳩の姿だった。その鳩を追うと、主人公がいる。こうして二人は共に解き放たれた者として再会する。そしてその場で、二人は目を閉じて自分たちの結婚式をリアルに想像する。こうして二人が現実の世界からも解放された姿を見て、私たちは、現実もまた一つの解放されるべき「牢獄」であることに気付く。