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2010年9月13日月曜日

噂のモーガン夫妻:明るいステレオタイプ化

保守的なのか、それとも21世紀の新しい世界観なのか、どっちだろうか。

物語の結末は、中西部の田舎町で、モーガン夫妻が住民たちに助けられて、めでたしめでたし、となる。
田舎万歳、共和党万歳、という見方もできる。
しかし、そのハッピーエンドも、住民たちが携行している銃によってもたらされていることが強調されている。住民たちが懐から取り出す銃の数々には笑ってしまう。その町の「善良な」人々は日常的に銃を持ち歩いていて、必要とあらばぶっ放すことをためらわないタイプなのである。ならば、これは巧妙な共和党批判なのだろうか。

もちろん答えはどちらでもない(のかもしれない)。そういう、何党だ、田舎だ都会だ、という見方をひっくり返すような新しさのあるのではないか、と感じさせる映画だった。

というのも、戯画化されているのは田舎の人々だけではないからだ。
モーガン妻は、徹底的にニューヨーカーとしてステレオタイプ化されている。
モーガン夫は、同じくイギリス紳士として、イギリス人が見ても笑い転げるほど(たぶん)誇張されて描かれている。もちろん彼らは民主党支持者だ。

「おまえはいつもこんなふうだぞ」と、多少相手の欠点を誇張して批判をぶっ放して許される相手など、そうそういるものではない。たぶん、「家族」以外には。

というわけで、この映画は「家族とは何か」と迫ってもくる。
夫妻は離婚の危機にある。それが、いろいろとあって、田舎町の住人の「親戚」として暮らすことを余儀なくされる。最後には、夫妻はよりを戻して、妻が妊娠するのだが、それでもなお彼らは養子(アジア系の赤ちゃん)を迎えるのである。

たぶんここにこの映画のキモがある。家族とは「他人」なのだよ、と教えてくれる。
この映画が、あらゆる人々を徹底的にステレオタイプ化して、それでもなお許されてしまうのは、おそらくその根底に、他人を家族として扱う視点があるからだろう。ステレオタイプ化しても笑っていられる関係はなかなかあるもんじゃないよ、だからそういう関係があったら大事にしなよ、という感じ。

そういえば、田舎の熟年夫婦のうちの夫だったか妻だったかが、夫との関係に悩むモーガン妻に、こんなことを言っていた。
「あなたの夫はあなたを笑わせてくれるんじゃないの?」
この言葉は、モーガン妻に強く響く。

というわけで、私たちを笑わせてくれるこの映画のことを、私たちも許してしまうことになる。





2010年8月27日金曜日

20世紀少年<最終章>:大人の夢物語とは

一昨日リジェクトされて戻って来たロンブンをレフリーの言い分通りに書き換えるという悲しい作業の最中でしたが、息抜きにテレビで20世紀少年の最終章とやらを見ました。
これがまたタイムリーな話だったので、一年ぶりにちょっと書きます。自分がどんな文体で書いていたのかも忘れたので、とりあえず「ですます」で。

物語の中心に、子供時代に友達と一緒になって遊びで書いた「よげんの書」があって、大人になった後、世界がその「よげんの書」の通りに進んでいく、というようなお話。それはもちろん偶然ではなくて、その友人たちの一人が後に独裁者になっていたからなのだが、そのあたりのお話はまぁいいとして。

私が面白いと思ったのは最後の部分で、大人になった主人公が不思議な装置を使って過去に戻り、子供時代に自分が犯した罪を、当時の自分にちゃんと謝らせるというくだりです。
ここにきてやっとこの映画が自分に響いてきたのは、私自身が大人だからでしょう。

子供時代の夢物語は、常に未来志向です。だからこの映画の子供たちは荒唐無稽な未来を思い描いていたわけです。

しかし、この映画の最後では、大人の夢物語を描いていたのです。
大人にとっての一番のフェアリーテールとは何か?
それは過去を書き換えることではないでしょうか。
子供時代の未来志向とは対照的に、大人の夢は過去志向なのです。

大人になるとはそういうことかもしれません。つまり、書き換えたい過去を持っていること。
この映画では、それが「謝罪」という形で、最後に連続して描かれます。
書き換えたい過去の最右翼は、つまり、最大の後悔とは、謝るべき時に謝らなかったことなわけです。
だから、最後の数分間で、主人公や他の重要人物が頭を下げたり土下座したりしています。

さて、そんなわけで、この「不可能な書き換えに関する映画」に励まされて、私もこれからロンブンの書き換え作業に戻るとします。