物語の結末は、中西部の田舎町で、モーガン夫妻が住民たちに助けられて、めでたしめでたし、となる。
田舎万歳、共和党万歳、という見方もできる。
しかし、そのハッピーエンドも、住民たちが携行している銃によってもたらされていることが強調されている。住民たちが懐から取り出す銃の数々には笑ってしまう。その町の「善良な」人々は日常的に銃を持ち歩いていて、必要とあらばぶっ放すことをためらわないタイプなのである。ならば、これは巧妙な共和党批判なのだろうか。
もちろん答えはどちらでもない(のかもしれない)。そういう、何党だ、田舎だ都会だ、という見方をひっくり返すような新しさのあるのではないか、と感じさせる映画だった。
というのも、戯画化されているのは田舎の人々だけではないからだ。
モーガン妻は、徹底的にニューヨーカーとしてステレオタイプ化されている。
モーガン夫は、同じくイギリス紳士として、イギリス人が見ても笑い転げるほど(たぶん)誇張されて描かれている。もちろん彼らは民主党支持者だ。
「おまえはいつもこんなふうだぞ」と、多少相手の欠点を誇張して批判をぶっ放して許される相手など、そうそういるものではない。たぶん、「家族」以外には。
というわけで、この映画は「家族とは何か」と迫ってもくる。
夫妻は離婚の危機にある。それが、いろいろとあって、田舎町の住人の「親戚」として暮らすことを余儀なくされる。最後には、夫妻はよりを戻して、妻が妊娠するのだが、それでもなお彼らは養子(アジア系の赤ちゃん)を迎えるのである。
たぶんここにこの映画のキモがある。家族とは「他人」なのだよ、と教えてくれる。
この映画が、あらゆる人々を徹底的にステレオタイプ化して、それでもなお許されてしまうのは、おそらくその根底に、他人を家族として扱う視点があるからだろう。ステレオタイプ化しても笑っていられる関係はなかなかあるもんじゃないよ、だからそういう関係があったら大事にしなよ、という感じ。
そういえば、田舎の熟年夫婦のうちの夫だったか妻だったかが、夫との関係に悩むモーガン妻に、こんなことを言っていた。
「あなたの夫はあなたを笑わせてくれるんじゃないの?」
この言葉は、モーガン妻に強く響く。
というわけで、私たちを笑わせてくれるこの映画のことを、私たちも許してしまうことになる。