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2009年8月2日日曜日

『おくりびと』:死んで赦される人々

主人公の初仕事は衝撃的なものであった。アパートで孤独死したおばあさんが、死後二週間して発見される。遺体は異臭を放っている。それを回収せねばならない。腐敗した遺体の足をつかみながら、彼は何度も嘔吐する。想像しうる限り「最悪」の死体である。

その日、彼が帰宅すると、妻が用意していた夕食は鶏鍋だった。鶏の「死体」を見て、彼はまた嘔吐する。

だが次の瞬間、彼は不可解な行動にでる。妻に抱きつき、妻の服を脱がしはじめるのである。なぜだろう?

この妻は、後に夫の仕事が納棺師であることを知り、「汚らわしい」と言って家を出て行く。しかし、何ヶ月かして突然戻ってくる。夫婦は和解する。妻は「あかちゃんができた」と言うのである。

不思議なことに、異臭を放っていたあの最悪の「死」も、こうして一つの命を「誕生」させたわけである。

死者を「プラスマイナスゼロ」にすること。死者の人生をイーブン・パーに戻すこと。言い換えれば、スタート地点に再び戻してやること。この映画が納棺師の仕事を通して描いているのは、そういうことのようだ。

この映画には種々多様な葬式が描かれている。だが、葬られる者たちには共通点がある。彼らはみな、生きている間はそれほど幸せではなかったようなのだ。肉親から認められていなかった者たちの葬式が延々描かれているのである。

最初は本木扮する主人公が死に顔を見て「きれいだ」とつぶやく「女性」。しかし、「彼女」は生物学的には男性だった。つまり、男として育てたかった両親を困惑させていた者が死んだのである。

暴走族の少女の死もしかり。両親は、少女の死後も彼女の髪の毛の色までも気に入らない。こんな子に育ってしまって、という思いが両親にある。

一人の母も、どうやら生前は夫に大切にされていなかったようだ。夫は妻の化粧には無頓着で、口紅のありかも分からない。最期、死に化粧を施された妻を見て、夫は初めて妻の美しさに気づく。

もっとも象徴的なのは、もちろん主人公の父親の死である。妻子を捨てて蒸発した父を、主人公はずっと許せないでいる。主人公にとっては罪深い人の死である。

いわば、死者たちはみな「負債」を抱えている。

しかし、主人公が行う納棺の儀式によって、死者が抱えていた人生の「負債」が、いつの間にか消え去っていく。プラマイゼロになる。

「女性」を生きてきた男は、納棺を通して女としての人格を両親に認められる。両親から責められ続けてきた暴走族の少女も、いや責められるべきは自分たちだったという悔い改めを両親にもたらす。生前はきれいだと言われたこともなかった妻も、ひとたび棺に納められると夫から最後の愛の告白を受ける。

急死した銭湯のおばさんも、最後のクリスマスを「他人」と過ごしたことから察せられるとおり、家族から大切にされていた人ではなかった。しかし、斎場で荼毘に付されるに至って、息子の心が大きく変化する。息子は涙を流しながら棺が炎に包まれていくのをじっと見つめ、「ごめんのぉ、ごめんのぉ」と母に手を合わせるのである。

主人公の父親もそうだ。息子に赦され、彼の人生は見事にイーブン・パーになった。なにも財産は築けなかった父だが、肉親から疎まれるという罪あるいは負債だけは、息子の執り行う納棺の儀を通して、帳消しになった。プラマイゼロ。そのことは、父の部屋の片隅に置かれていた小さな段ボール一箱が象徴的に示してもいた。

腐敗したおばあさんの死は、回り回って、離れかけた主人公夫婦の関係を「元に戻し」てくれた。そして30年不在だった父の死を境に、「夫は納棺師です」と公言できるようになった妻と共に主人公の人生もいわば二周目に入っていく。

イーブンパーは「ゼロ」だが、スタート時のゼロとは違う。一周回ってたどりついたゼロだ。

そんなイーブン・パーの不思議な充足感と共に、主人公は近く生まれてくる子供の「父親」として人生の二周目に進むことになるのだろう。