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2013年8月19日月曜日

あまちゃん:代役の物語

実家の寝室が暑くて眠れず、深夜諦めてテレビをつけたら『朝まであまテレビ』と称して、NHK朝ドラ『あまちゃん』の総集編をやっていた。おかげで、それまで断片的しにか知らなかったエピソードがつながった。それで今日(8月19日)の回を見て、このドラマは徹底的に代役の物語なのだな、と思った。

今日の回では、主人公アキの母(小泉今日子)の母親が倒れ、母は岩手の実家へ戻り、アキは東京で映画のオーディション会場へと向かう。そこで彼女は、一つの台詞を言うよう求められる。それは、「かあちゃん、親孝行できなくてごめんなさい」というものだった。一方、岩手の病院では、小泉今日子が母親に対して、複雑な思いを抱えたまま、母の手術が終わるのを待っている。おそらく、彼女には母親に言うべきことがある。でも、それを言うことが出来ない。ところが、東京では、自分の番が回ってきたアキが、「かあちゃん、親孝行できなくてごめんなさい」と叫ぶ。それはもう、オーディションのための台詞というよりは、小泉今日子の言うべき台詞をアキが代役で叫んでいるようにしか聞こえない。

だとすれば、このドラマの結末をこの時点で予想することができるように思う。

主人公がオーディションを受けている映画は、『潮騒のメモリー』。かつて母である小泉今日子が歌手鈴鹿ひろ美(薬師丸ひろ子)の代役として歌った同名の歌にちなんだ映画だった。若かった母は、薬師丸ひろ子の代わりに歌声だけ担当、決してアイドルとして人前に出ることは出来なかった。だから今度は、娘であるアキが、母自身の代役人生を映画の中で繰り返しつつ、さらにアキ自身が代役として母の夢を果たすことになる。つまり、映画の中では役の上で「代役」を与えられるアキが、なんらかの理由で主演女優が降板することによって自ら主役となる。そして、母がかなえられなかった表舞台に立つ夢(薬師丸ひろ子の代役として「潮騒のメモリー」を歌った母の夢)を『潮騒のメモリー』の主役として実現するのだろう。

しかし、おそらくそのとき母小泉今日子はもうこの世にはいない。(と同時に、アキ自身が赤ん坊を宿して「母」になるのかもしれない。)

このような代役人生は、もちろん、アキの母やアキに限ったことではないのだろうが。
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追記、さっき(9月16日夜)映画を見終えたら「あまちゃん」やってました。あーっ、みんな生きてる!めでたし。でも、いつからナレーションがアキの母(小泉)になったんだろう?
ところで見た映画というのは『ネクスト』で、予知能力のある主人公が、テロリストの計画を阻止して、恋人の命も救う、というお話。でも、実際に描かれたのは、その失敗編で、テロリストが核爆弾をロサンゼルスで爆発させてしまう。成功編はやらない。
結局これは、将棋やチェス(私はどちらもやらないが)でいえば、「待った」がOKな棋士の話。失敗したら、いくらでも遡ってやり直せるので、絶対負けない。実際、主人公が未来を読む場面では、彼が次々に分裂して無数の分身が歩き出していて、その姿は将棋の先読みが次々に枝分かれしてしていくことを表現しているようだった。で、待ったが許されている棋士が勝つ様子を見ても面白くないわけだから、この映画が描けたのは、派手に負けそうになる読み筋なのでありました。でも、待ったが許されたら将棋は面白くない、という批判がましいことを言っても仕方がない。将棋は何度でも別の対局があって、そういう意味では、現実に何度でもゼロからやり直せるわけだが、ジンセイはそうはいかないので。だから、ジンセイに「待った」がきいたらという願いは、たわ言ではない。この主人公が先読みできるのも、たった2分だけだ。でも、この脚本家は、2分という一見短い時間が、人生を悲劇にするには十分なことを知り尽くしているに違いない。(一寸先はホントに闇ですから。)だから、2分逆戻しできる主人公を描いてみたくなったんだろう。そこがとてもリアルな感じがして、物語の表面的な荒唐無稽さの裏に、脚本家の心の闇が垣間見られるような作品でありました。

2013年7月26日金曜日

「風立ちぬ」――すべては風のおかげさま


どうやって風という目に見えないものをつかむか、そこが難しい。

「風立ちぬ」というタイトルは、ヴァレリーの詩「風が起きた、生きてみなければならない」がもとになっている。その詩の通り、風(空気)は人を生へと突き動かす言わば命の源なのだが、しかし、目には見えないし、手でつかむことも出来ない。

物語は零戦を開発する「二郎」と、結核を患う妻「菜穂子」の二つの物語が、つながり合うことで成り立っている。

題名から明らかだが、この二つは「風」(空気)がつなげてくれたようだ。目に見えないもの(空気)を捉えることの困難さが、二人が格闘している飛行機と結核の根底にあるのだから。

空気を捕まえることの難しさは、物語の初めから強調されている。そこでは、少年時の二郎が夢を見ていた。家の屋根から飛行機で空へ羽ばたくのだが、空に現れた邪悪な黒いものに撃ち落とされ、地面へと墜落していく。それから幾度か二郎は同じように墜落する夢を見ている。

映画を見終えて振り返ってみれば、空気を捕らえ損ねる悪夢の数々は、まるで菜穗子の結核を不気味に予告していたようだ。空気をとらえようとする菜穂子の肺をむしばむ、黒い邪悪な病巣のことを。

だが元々、風を見事につかんで見せたのは、後に妻になる菜穂子だった。
二人の出会いの場面だ。汽車のデッキでヴァレリーの詩を読んでいた二郎は、帽子を飛ばされてしまう。それを見事につかんだのが、菜穂子だ。そのとき、二人を結びつけた(つなげた)のは、一見、帽子だ。だが、そうではない。風なのだ。風は目に見えない。飛ばされた帽子は、見えない風を可視化する道具に過ぎない。だから二人はそこでヴァレリーの「風」の詩を口にする。

後に二人が軽井沢(?)で再会する場面でも、風に飛ばされたパラソルが二人を結びつける。それはもちろん、パラソルではなく風の手柄なのだ。
帽子やパラソルだけでなく、紙飛行機もまた、体調を崩した菜穂子と二郎の間を取り持ったりもする。「風」あっての二人なのである。

その風に舞う紙飛行機が教えてくれるのは、二郎のキャリアである飛行機もまた、結局この映画にとっては、風を可視化するものに過ぎない、ということだろう。

映画の最後、空を舞う無数の零戦の姿が描かれるとき、それは飛行機というより、私の目には桜吹雪に見えた。風に舞う桜の花びらもまた、一種の帽子であり、パラソルなのだから、飛行機もまたそうなのだろう。

二郎と菜穂子が結婚式を挙げる場面では、一見、雪が降っているように見える。しかし、よく見ると、それは雪というより紙片だった。あるいは紙吹雪だった。つまり、風が吹いていることが表現されていたのである。

だからこの映画で、宮崎の意識では零戦を描きたかったのかもしれないが、彼の無意識ではそうではなかったようにも見える。それは、帽子やパラソルを描くことが主眼であるはずがないのと同様だ。飛行機を含め空を舞う数々の物体は、風という見えない生命の源を可視化し、あるいはそれを映画の中で宮崎がつかんで差し出すための方便にすぎないのかもしれない。

私たちは時々、目に見えないものは存在しないと勘違いすることがある。あるいは、自分がつかんだ何かいいものを、自分の力でつかみ取ったと思い上がることもある。しかし、おそらく私たちの人生で出くわすよいものとは、見えないなにものかが私たちのところまで運んできてくれたに違いないのである。私たちに出来るのは、それをきちんとキャッチすることなのだ。

だからこそ、菜穂子という死者から二郎に届く「メッセージ」は、映画の最後にささやかれたような「あなた、生きて」という直接的な願いであるはずがない。死者という見えないなにものかは、「生きて」という手に触れるような(帽子とかパラソルとか飛行機とかのような)この世的な通信はよこさないし、それは宮崎駿も承知していたはずだ。

(二郎の声優の声がぶっきらぼうでなければならなかった理由がここにある。二人の物語に観客が感情移入することを困難にする必要があった。観客が死者の言葉を、まるで生者の言葉のように「この世的」に受け取ることがないようにせねばならなかった。)

だから、最後の「あなた、生きて」という菜穗子の言葉を、私たちはヴァレリーの詩(「風が起きた、生きてみなければならない」)から逆算して、聞かねばならないのだろう。つまり、「生きて」ではなく「風が起きた」の方である。風が起きたことを私たちは見過ごすことなくキャッチせねばならない。映画のタイトルが「風立ちぬ」であるゆえんだ。

死者からの通信は、いわば風としてしか届かない。目に見えない、つかみどころのないものとして。しかし、飛行機の設計技師という「風をつかむ専門家」である二郎は、妻からの「起きた風」をきっとナイスキャッチすることだろう。

これは蛇足だが、この世的な通信(直接的メッセージ)ではないものとは、どのようなものなのか。それは、たぶん、「偶然の一致」として私たちに感知されるようなものではないだろうか。不思議な偶然の一致を、私たちはそのままうち捨てておく(キャッチしない)けれども、おそらくそこに、なにかがあるのではないだろうか。そう考え始めるのは、ある病の始まりかもしれないが、ただ宮崎駿もまた「堀越二郎」と「堀辰雄」の「掘」つながりという偶然の一致を見逃すことがなかったことは、忘れてはならないはずだ。
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追記2013年7月27日
こう書いてから丸一日も経っていない26日深夜、NHKで『僕の彼女を紹介します』という映画を観た。それは風と紙飛行機の物語だった。

2013年6月1日土曜日

『ランドリー』――現代版鉢かづき姫の物語


程度の差はあっても、人はそれぞれが檻の中に閉じ込められている。

コインランドリーで働く主人公も、そこで洗濯をする客たちも、それぞれが「囚人」のように見える。

映画が始まって間もなく、コインランドリーに一人の軽量級のボクサーが現れる。試合に負けたようだ。その小さな男は、乾燥機の蓋を開け、中に入り込んでしまう。透明な蓋を通して、そのボクサーは外を見ている。時には乾燥機の中に入ったままカップ麺を食べたりもしている。彼は、いわば「檻」の中で生活を始めてしまったのである。

主人公は小さい頃に頭に怪我をして、知的障害を負っている。彼の面倒を見ていた祖母が、あるとき、こう言ったという。彼の記憶は、氷の中に閉じ込められている、と。

主人公と交流を深める女性もまた、ボクサーや主人公同様、傷を負っている。彼女の場合は、心の傷だ。でもそれもまた現実の傷である。だから、彼女が乾燥機に忘れていった洋服は、血で汚れている。そしてまた彼女も、一人の囚人である。映画の終盤、彼女は罪を犯し、収監されてしまう。彼女も「閉じ込められている人」なのである。

では、彼らはどのように救われるのか。解き放たれるのか。

主人公と彼女は、主人公がヒッチハイクで偶然出会った男の家に転がり込む。その男は、セレモニーで白い鳩を飛ばす仕事をしている。かごに入れられた鳩を大空に飛び立たせる男。つまり、檻に入れられた者を解き放つ仕事人である。

その男は、ある日突然、結婚をするために外国へ行くと宣言して、二人を残して出て行ってしまう。この男は鳩だけでなく自らをも大空へと解き放ったわけである。

主人公は、鳩を飛ばす仕事を手伝ったり、その男の家出を通して、知らぬ間に、解き放つコツをつかんでいく。

だが、もっと重要なのは、彼女との出会いである。彼女は、「氷の中に閉じ込められている」彼の記憶を解き放ってくれたのだから。

あるとき、お話を聞かせてくれと彼女にせがまれ、主人公は祖母から聞いた口笛のうまい船乗りの話を語り出す。荒れた海で船が難破したところまで話をすると、主人公はその先が思い出せなくなってしまう。つまり、そのお話の結末は、主人公の記憶という「氷の中に閉じ込められて」いて、解き放つことができないのだ。しかし、物語結末で、彼女が収監されたこと(すなわち閉じ込められたたこと)をきっかけに、彼は話の続きを思い出す。

彼女が逮捕されたことに絶望して雨の中に倒れた主人公は、いつの間にか、おとぎ話の難破した船乗りの姿に重なっていく。遭難した船乗りは、溺死することなく浜に打ち上げられ、一人の女性に助けられている。そのとき立ち上がった船乗りは、上下とも白い服を着ている。この船乗りは、女性によって解き放たれた白い鳩なのであり、主人公もまた同様なのである。

だからこの直後、映画の中で主人公が出会った人々の姿が次々に映し出されるとき、カメラの視点は、普通の人間の目線ではない。かなり上の方から撮っている。あるいは、空を映し出している。つまり、それは鳥の視点なのである。主人公自身も、解き放たれた白い鳩になったわけだ

刑期を終えた(檻から外に出た)彼女が目にするのは、空を舞う白い鳩の姿だった。その鳩を追うと、主人公がいる。こうして二人は共に解き放たれた者として再会する。そしてその場で、二人は目を閉じて自分たちの結婚式をリアルに想像する。こうして二人が現実の世界からも解放された姿を見て、私たちは、現実もまた一つの解放されるべき「牢獄」であることに気付く。

この物語には、派手なヒーローはいない。登場人物たちは、それぞれが「敗者」であり、小さな存在に見える。しかし、そう見えてしまうとしたら、それは見る側が現実という牢獄に入っているからなのだろう。それ自体一つのおとぎ話のようなこの映画は、確かに私たちを世間一般の成功の尺度から解き放つことに成功しているように思う。

2011年8月23日火曜日

コクリコ坂から:追記(代理親子の系譜)

映画『コクリコ坂から』について書いた前回に少々付け足しを。
あれを書いたあと、そういえば前にも代理親子について同じようなことを書いた気がして、少々思い出してみた。そしたらやはり、2年前に「すべての手塚漫画は弔辞である」と題して、手塚治虫が繰り返し孤児(養父や養子)について書いていることを指摘していた。

宮崎駿だけでなく、その先輩である手塚治虫もまた代理親子(あるいは養父/養子)のテーマに執着していたわけだ。

たとえば、もしも漫画『鉄腕アトム』のアトムが「息子を亡くした科学者が息子の代理として作ったロボット」であるだけならば、それは別に驚くことではない。その科学者にとってアトムは「養子」だが、アトムにとってはその科学者は「実父」というわけだ。しかし、興味深いのは、このあと手塚がその科学者にアトムを捨てさせることだ。つまり、手塚はアトムにも「実父」を失わせたのだ。そしてアトムはお茶の水博士を代理父とすることになる。こうして『鉄腕アトム』は始まりから二重に代理父子問題を抱えていたのである。

もちろん、代理親子のテーマは宮崎駿や手塚治虫の専売特許ではない。


アメリカ文学では『トム・ソーヤ』や『ハックルベリー』を書いたマークト・ウェインの主人公たちも、なぜか「養子」が多い。トムもおばさんに育てられているし、ハックルベリーも実父から逃れて「代理父」的な逃亡奴隷と旅をする。児童文学の古典とも言える『王子と乞食』も、単に王子と乞食が服を取り替えっこすることでお互いの地位を交換するだけの物語ではない。その裏には、王子の父親(王様)と乞食の父親の物語がある。それぞれの父親に、他人である子供(代理息子)が向き合う物語でもあるのである。


では、なぜ偉大な創作家たちは代理親子関係を執拗に描くのか?


その答えは、たぶんこのブログのどこかにすでに書いてある、と思う。
それが何であったかよく思い出せないので(笑)、もう一度、読み直してみることにしよう。

2011年8月17日水曜日

コクリコ坂から:死者からの通信はどのように届くか

このお盆に墓前で手を合わせた人も多いだろう。しかし、当たり前のことだが、死者に話しかけても返事は来ない。死者との通信は、いつも一方通行だ。たとえば、この映画で軽く引用されている宮沢賢治(「カルチェラタン」という名のクラブ棟で、文芸部員たちが「小岩井農場」を暗唱していた)も、死んだ妹からの通信がなぜ許されないのか、とほとんど涙ながらに書いていた(「青森挽歌」)。

さて、『コクリコ坂から』はこのような解決不可能な問題への一つの答えだろう。なぜ死者とは通信が許されないのか? いや許されている。それが宮崎駿の答えのようだ。

毎朝、主人公の「海」は死者へ一方通行の信号送り続けている。今は亡き父は船乗りだった。おそらく無駄なことは百も承知で、「海」は坂の上に建つ家の庭に信号旗を掲げ、眼下の海を航行する船に向けて信号を送っている。しかし、この映画では、それに対して「死者」からの返事があるのである。

その意味で、この映画で一番印象深かったのは、主人公の海が一枚の絵を見る場面だった。

ある朝、なかなか起きてこない下宿人の部屋に「海」が入っていく。そこで「海」は一枚の絵を目にする。印象派風に海を描いたその絵の中に、「海」は一つの船を発見する。その船には、自分の信号に応答する信号旗が掲げられている。

こうして、死んだ父からの応答を「海」は受け止めたのである。

描いた当人の下宿人にとっては、その絵が失敗作であったことも興味深い。
「夜描いたから色が違った」みたいなことをその下宿人は言うのである。しかし、その絵を見る側の「海」にとっては、その絵は一種の奇跡に近かったはずだ。

この映画を「失敗作」であると評する人も多いと聞く。しかし、結局は見る側がそこに何を見いだすか、ではないだろうか。「海」のように決定的な欠如を抱えている者は、大きなキャンバスに描かれた絵の中に小さな船を見つけ出すことが出来る。

さて、ここで終わってもいいけれど、今日、朝日新聞の朝刊に小原篤記者による「駿から吾朗への継承物語?」と題する映画評が出ていたので、もう少し蛇足的なことを書きたい。

たしかに、記者のように、父と子という視点からこの映画を見ることも出来る。しかし、この映画が興味深いのは、父と子がそれぞれ「代理」であるところだと思う。

俊の父は実父ではない。船乗りだった父親が遺した赤ん坊を、「海」の父が仲介役となって、今の育ての親が引き取ったのである。その意味で、俊の父は「代理」父である。

また、俊自身も「代理」息子である。というのは、俊を引き取った夫婦は、当時、実の子供を亡くしたばかりだったからである。

代理親子という主題を決定的にしているのは、「海」の家庭事情だ。「海」の母は留学中なので、高2の「海」が下宿屋を切り盛りしている。つまり、子であるはずの「海」が、「代理」母の役割を担っているのである。
「海」の母性は、彼女のあだ名「メル」が暗示してもいる。映画を見ている最中は、私は単に海をフランス語(mer)に訳したあだ名なのだと思っていた。しかし、あとになって代理父子問題について考えていて気づいたのだが、全く同じ発音でmereと書けば「母」という意味になる。級友たちが「海」を「メル」と呼ぶ度、彼女は「母」と呼ばれていたとも考えられるのである。)

同様に、同年代の俊は代理父でもある。「海」の信号旗に船上から応答していたのは、現実には亡父ではなく俊だったからだ。物語の過程で、一時、俊は「海」の父の子供であるかのように描かれていた。俊の育ての親も俊に向かって「最近、ますますおまえは父親に似てきた」とまで言う。こうして、「海」の亡父と俊の姿が重なり合う。

だから問題は、ただの親子関係ではなくて、なぜ「代理」親子が執拗に描かれるか、であるはずだ。

この逆のケースとして興味深いのは、ある段階で、「海」と俊の二人が自分たちは本当の兄妹なのだと思い込んでいた時間帯があることだ。代理ではなく、血を分けた兄妹だと思い込んでいたとき、二人の関係はむしろ「他人」になるのである。急によそよそしくしたり、路面電車の停留所で「告白」したりするのだ。

だとすれば、映画の結末近くで二人が実際の「兄妹」ではないと分かったとき、二人の関係は本当の意味での兄妹に近づくことになるのではないだろうか?他人なのに、血を分けた関係として。恋人同士というより代理の兄妹として。現実の血縁ではなく代理の親子兄弟関係こそが、宮崎にとって何らかの意味で(死者からの通信を可能にするような、というような意味で)恋人同士より高次元の人間関係なのであろう。

そして物語の締めは、二人の前に登場する代理の父親だ。二人の亡父と親友だった船長が、二人を前にして、実に幸せそうにしているのである。おそらくこの船長は独身だろう(笑) このように代理家族が三人集結することで、物語は完結する。

たぶん、この船長は、今は亡き二人の親友からの伝言のようなものとして、「海」と俊を迎え入れているのではないだろうか。だとすれば、「海」と俊の存在自体が死者からの通信なのかもしれない。

実際、映画の中で象徴的に使われていた信号旗は「UW」を意味している。あなた(UYou)は、単独であなたなのではない。あなたは常に二重のダブル・ユー(W)である。では、誰と二重なのか?この映画的には、死者と二重になっているのだろう。その意味で、あなたは常に死者の代役あるいは伝令役なのである。

2011年8月8日月曜日

父と暮せば:若返りの奇跡に参加すべし


原爆で友人や父を亡くした主人公(宮沢りえ)が、生き残ってしまったという罪の意識から回復する物語。昨日、私はテレビで見た。

この夏は、東北の地震で多くの人が同じような問題を抱えている。そこへ、意図してか偶然か、NHKは東北出身の原作者井上ひさしの映画を捧げた。ちょうど映画の最後で亡き父の一つの言葉が主人公を快復させたように、今は亡き井上ひさしの作品が同じ役割を果たすよう念じるかのごとく。

こういうところに、芸術作品しか果たせないような役割があるのかもしれない。

医者は肉体の病を治す。しかし、主人公が抱えている「病」は医者には治せない。
罪悪感に苦しむ娘の話を聞いて、父親が「おまえは病にかかっている」と言っていた。
心筋梗塞とかガンとか病にはいろいろあるけれど、死者に対する負い目という「病」もまた、人を死に至らしめることがある。だから、主人公は死んだように生きている。あるとき、自殺をするのは怖いので生きているだけだ、と告白する。こういう人を救うのは誰なのか?また、いかにして救うのか?

映画の中では、表面的には父親がその役割を果たす。今は亡き父親の霊が、娘に好意を寄せる男性と娘の仲を取り持つことで、娘を生の世界へと戻していく。そして「孫が欲しい」という最後の言葉が決定的なものとなって、娘はその男性と生きていくことを決心する。

しかし、その父親が幽霊であり、結局、主人公が作り出した幻、いわばフィクションであることが大切であるように思う。

この映画が描いているのは、主人公が一つの「物語」(フィクション)を生きている姿なのである。

全編を貫く亡父との会話が主人公の「創作」であるだけではない。主人公は図書館に勤め、さらに学生時代には地方の昔話を収集する作業に没頭していたのである。

その中の一つの昔話がとても印象的だ。

昔あるところにおじいさんとおばあさんがいて、あるときおばあさんが若返りの水を飲んで、しわが取れた。そこでおじいさんも早速その水を飲みに行ったのだが、なかなか戻ってこない。そこでおばあさんがおじいさんを捜しに行くと、そこにいたのは赤ん坊だった。そんなあらすじだ。

この物語は二つの意味でとても重要である。

一つは、おじいさんが赤ん坊になっている点で。つまり、人生の終わりの姿(おじいさん)と、人生の最初の姿(赤ん坊)が、奇跡的に接続されている。

この昔話が、映画の最後の「孫が欲しい」という亡父の言葉を生かしている。孫、すなわち赤ん坊とは、おじいさん(亡父)の変身した姿なのである。

この「奇跡」を行えるのは、主人公だけである。その使命に主人公は目覚めた。

自分の命が自分だけのものであるならば、それを捨てるかどうかは自分次第だという理屈も成り立つ。主人公もそう思っていたからこそ、自殺を口にすることもあった。しかし、最終的に主人公は、自分の命が父親からの「もらいもの」であり、それを預かっている自分の責任を知り、孫という形で、それをさらにバトンパスすることを決意する。そんな使命への目覚めが、主人公の病を治したのである。

もう一つ重要な点は、あの「昔話」を、主人公が父親の霊に語って聞かせていることだ。元々は地方の老人から聞いた昔話だが、今度は主人公が父親に話してあげているのである。昔から語り引き継がれている物語の輪の中に、主人公はこのようにして「参加」したのだ。

つまり、昔話もまた、引き継がれていく「命」なのである。

ここに、井上ひさしの慧眼がある。物語こそが、命そのものなのである。
しかも、人は物語ることでしか、罪の意識というフェイタルな病を治せないのである。

その物語は、どんなものでもいいというわけではない。
その物語は、死者と切迫した形で向き合うことによってのみ創造できるたぐいのものだ。
それは、死者とどうしても向き合わざるを得ないという状況で、適当な言い訳に逃げ込んで楽になるのではなく、誠実にその苦痛に耐え続ける者だけが語れるような物語だ。

あるとき、主人公は亡き友(この友は主人公にとってほとんど「もう一人の自分」であり、この意味でも主人公自身が一つの「死」を経験している)への思いを語るうちに、自分が抑圧していたものに気づく。それは亡父への負い目だった。死者(亡き友)の物語を語ることで、主人公はもう一人の死者(亡父)に向きあうことになる。

そして、主人公は亡き父を家に「住まわす」。
さらに、その亡き父と対話(主人公の作ったフィクション)を重ねる中で、主人公は実際に、自分の家に、もう一人の「死者」を住まわすことになる。それは、自分に好意を寄せる男性からの「預かりもの」、原爆に関する資料のことである。

こうして、主人公は、凡夫にとって「大勢」でしかない原爆での死者を、自分の家に住まわせ、プライベートな領域で引き受ける。主人公の「再生」は、このような使命を個人として正面から引き受けることを通して得られたのだ。

死者から遠ざかることではなく、死者を葬り去ることでもなく、まして、死者を忘れさることでもなく、ただ、「死者」を自分の家に住まわすことでのみ「負い目の病」は癒される。

そして蛇足ながら繰り返せば、そのような治癒は、医者ではなくフィクションがもたらしたのである。更に言えば、そのフィクションは、主人公が自分で作り上げたと言うよりは、自分の中に住まう死者からポッと差し出されたものを、主人公が受け取った「もらい物」なのだった。

2010年9月13日月曜日

噂のモーガン夫妻:明るいステレオタイプ化

保守的なのか、それとも21世紀の新しい世界観なのか、どっちだろうか。

物語の結末は、中西部の田舎町で、モーガン夫妻が住民たちに助けられて、めでたしめでたし、となる。
田舎万歳、共和党万歳、という見方もできる。
しかし、そのハッピーエンドも、住民たちが携行している銃によってもたらされていることが強調されている。住民たちが懐から取り出す銃の数々には笑ってしまう。その町の「善良な」人々は日常的に銃を持ち歩いていて、必要とあらばぶっ放すことをためらわないタイプなのである。ならば、これは巧妙な共和党批判なのだろうか。

もちろん答えはどちらでもない(のかもしれない)。そういう、何党だ、田舎だ都会だ、という見方をひっくり返すような新しさのあるのではないか、と感じさせる映画だった。

というのも、戯画化されているのは田舎の人々だけではないからだ。
モーガン妻は、徹底的にニューヨーカーとしてステレオタイプ化されている。
モーガン夫は、同じくイギリス紳士として、イギリス人が見ても笑い転げるほど(たぶん)誇張されて描かれている。もちろん彼らは民主党支持者だ。

「おまえはいつもこんなふうだぞ」と、多少相手の欠点を誇張して批判をぶっ放して許される相手など、そうそういるものではない。たぶん、「家族」以外には。

というわけで、この映画は「家族とは何か」と迫ってもくる。
夫妻は離婚の危機にある。それが、いろいろとあって、田舎町の住人の「親戚」として暮らすことを余儀なくされる。最後には、夫妻はよりを戻して、妻が妊娠するのだが、それでもなお彼らは養子(アジア系の赤ちゃん)を迎えるのである。

たぶんここにこの映画のキモがある。家族とは「他人」なのだよ、と教えてくれる。
この映画が、あらゆる人々を徹底的にステレオタイプ化して、それでもなお許されてしまうのは、おそらくその根底に、他人を家族として扱う視点があるからだろう。ステレオタイプ化しても笑っていられる関係はなかなかあるもんじゃないよ、だからそういう関係があったら大事にしなよ、という感じ。

そういえば、田舎の熟年夫婦のうちの夫だったか妻だったかが、夫との関係に悩むモーガン妻に、こんなことを言っていた。
「あなたの夫はあなたを笑わせてくれるんじゃないの?」
この言葉は、モーガン妻に強く響く。

というわけで、私たちを笑わせてくれるこの映画のことを、私たちも許してしまうことになる。