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2011年8月23日火曜日

コクリコ坂から:追記(代理親子の系譜)

映画『コクリコ坂から』について書いた前回に少々付け足しを。
あれを書いたあと、そういえば前にも代理親子について同じようなことを書いた気がして、少々思い出してみた。そしたらやはり、2年前に「すべての手塚漫画は弔辞である」と題して、手塚治虫が繰り返し孤児(養父や養子)について書いていることを指摘していた。

宮崎駿だけでなく、その先輩である手塚治虫もまた代理親子(あるいは養父/養子)のテーマに執着していたわけだ。

たとえば、もしも漫画『鉄腕アトム』のアトムが「息子を亡くした科学者が息子の代理として作ったロボット」であるだけならば、それは別に驚くことではない。その科学者にとってアトムは「養子」だが、アトムにとってはその科学者は「実父」というわけだ。しかし、興味深いのは、このあと手塚がその科学者にアトムを捨てさせることだ。つまり、手塚はアトムにも「実父」を失わせたのだ。そしてアトムはお茶の水博士を代理父とすることになる。こうして『鉄腕アトム』は始まりから二重に代理父子問題を抱えていたのである。

もちろん、代理親子のテーマは宮崎駿や手塚治虫の専売特許ではない。


アメリカ文学では『トム・ソーヤ』や『ハックルベリー』を書いたマークト・ウェインの主人公たちも、なぜか「養子」が多い。トムもおばさんに育てられているし、ハックルベリーも実父から逃れて「代理父」的な逃亡奴隷と旅をする。児童文学の古典とも言える『王子と乞食』も、単に王子と乞食が服を取り替えっこすることでお互いの地位を交換するだけの物語ではない。その裏には、王子の父親(王様)と乞食の父親の物語がある。それぞれの父親に、他人である子供(代理息子)が向き合う物語でもあるのである。


では、なぜ偉大な創作家たちは代理親子関係を執拗に描くのか?


その答えは、たぶんこのブログのどこかにすでに書いてある、と思う。
それが何であったかよく思い出せないので(笑)、もう一度、読み直してみることにしよう。

2011年8月17日水曜日

コクリコ坂から:死者からの通信はどのように届くか

このお盆に墓前で手を合わせた人も多いだろう。しかし、当たり前のことだが、死者に話しかけても返事は来ない。死者との通信は、いつも一方通行だ。たとえば、この映画で軽く引用されている宮沢賢治(「カルチェラタン」という名のクラブ棟で、文芸部員たちが「小岩井農場」を暗唱していた)も、死んだ妹からの通信がなぜ許されないのか、とほとんど涙ながらに書いていた(「青森挽歌」)。

さて、『コクリコ坂から』はこのような解決不可能な問題への一つの答えだろう。なぜ死者とは通信が許されないのか? いや許されている。それが宮崎駿の答えのようだ。

毎朝、主人公の「海」は死者へ一方通行の信号送り続けている。今は亡き父は船乗りだった。おそらく無駄なことは百も承知で、「海」は坂の上に建つ家の庭に信号旗を掲げ、眼下の海を航行する船に向けて信号を送っている。しかし、この映画では、それに対して「死者」からの返事があるのである。

その意味で、この映画で一番印象深かったのは、主人公の海が一枚の絵を見る場面だった。

ある朝、なかなか起きてこない下宿人の部屋に「海」が入っていく。そこで「海」は一枚の絵を目にする。印象派風に海を描いたその絵の中に、「海」は一つの船を発見する。その船には、自分の信号に応答する信号旗が掲げられている。

こうして、死んだ父からの応答を「海」は受け止めたのである。

描いた当人の下宿人にとっては、その絵が失敗作であったことも興味深い。
「夜描いたから色が違った」みたいなことをその下宿人は言うのである。しかし、その絵を見る側の「海」にとっては、その絵は一種の奇跡に近かったはずだ。

この映画を「失敗作」であると評する人も多いと聞く。しかし、結局は見る側がそこに何を見いだすか、ではないだろうか。「海」のように決定的な欠如を抱えている者は、大きなキャンバスに描かれた絵の中に小さな船を見つけ出すことが出来る。

さて、ここで終わってもいいけれど、今日、朝日新聞の朝刊に小原篤記者による「駿から吾朗への継承物語?」と題する映画評が出ていたので、もう少し蛇足的なことを書きたい。

たしかに、記者のように、父と子という視点からこの映画を見ることも出来る。しかし、この映画が興味深いのは、父と子がそれぞれ「代理」であるところだと思う。

俊の父は実父ではない。船乗りだった父親が遺した赤ん坊を、「海」の父が仲介役となって、今の育ての親が引き取ったのである。その意味で、俊の父は「代理」父である。

また、俊自身も「代理」息子である。というのは、俊を引き取った夫婦は、当時、実の子供を亡くしたばかりだったからである。

代理親子という主題を決定的にしているのは、「海」の家庭事情だ。「海」の母は留学中なので、高2の「海」が下宿屋を切り盛りしている。つまり、子であるはずの「海」が、「代理」母の役割を担っているのである。
「海」の母性は、彼女のあだ名「メル」が暗示してもいる。映画を見ている最中は、私は単に海をフランス語(mer)に訳したあだ名なのだと思っていた。しかし、あとになって代理父子問題について考えていて気づいたのだが、全く同じ発音でmereと書けば「母」という意味になる。級友たちが「海」を「メル」と呼ぶ度、彼女は「母」と呼ばれていたとも考えられるのである。)

同様に、同年代の俊は代理父でもある。「海」の信号旗に船上から応答していたのは、現実には亡父ではなく俊だったからだ。物語の過程で、一時、俊は「海」の父の子供であるかのように描かれていた。俊の育ての親も俊に向かって「最近、ますますおまえは父親に似てきた」とまで言う。こうして、「海」の亡父と俊の姿が重なり合う。

だから問題は、ただの親子関係ではなくて、なぜ「代理」親子が執拗に描かれるか、であるはずだ。

この逆のケースとして興味深いのは、ある段階で、「海」と俊の二人が自分たちは本当の兄妹なのだと思い込んでいた時間帯があることだ。代理ではなく、血を分けた兄妹だと思い込んでいたとき、二人の関係はむしろ「他人」になるのである。急によそよそしくしたり、路面電車の停留所で「告白」したりするのだ。

だとすれば、映画の結末近くで二人が実際の「兄妹」ではないと分かったとき、二人の関係は本当の意味での兄妹に近づくことになるのではないだろうか?他人なのに、血を分けた関係として。恋人同士というより代理の兄妹として。現実の血縁ではなく代理の親子兄弟関係こそが、宮崎にとって何らかの意味で(死者からの通信を可能にするような、というような意味で)恋人同士より高次元の人間関係なのであろう。

そして物語の締めは、二人の前に登場する代理の父親だ。二人の亡父と親友だった船長が、二人を前にして、実に幸せそうにしているのである。おそらくこの船長は独身だろう(笑) このように代理家族が三人集結することで、物語は完結する。

たぶん、この船長は、今は亡き二人の親友からの伝言のようなものとして、「海」と俊を迎え入れているのではないだろうか。だとすれば、「海」と俊の存在自体が死者からの通信なのかもしれない。

実際、映画の中で象徴的に使われていた信号旗は「UW」を意味している。あなた(UYou)は、単独であなたなのではない。あなたは常に二重のダブル・ユー(W)である。では、誰と二重なのか?この映画的には、死者と二重になっているのだろう。その意味で、あなたは常に死者の代役あるいは伝令役なのである。

2011年8月8日月曜日

父と暮せば:若返りの奇跡に参加すべし


原爆で友人や父を亡くした主人公(宮沢りえ)が、生き残ってしまったという罪の意識から回復する物語。昨日、私はテレビで見た。

この夏は、東北の地震で多くの人が同じような問題を抱えている。そこへ、意図してか偶然か、NHKは東北出身の原作者井上ひさしの映画を捧げた。ちょうど映画の最後で亡き父の一つの言葉が主人公を快復させたように、今は亡き井上ひさしの作品が同じ役割を果たすよう念じるかのごとく。

こういうところに、芸術作品しか果たせないような役割があるのかもしれない。

医者は肉体の病を治す。しかし、主人公が抱えている「病」は医者には治せない。
罪悪感に苦しむ娘の話を聞いて、父親が「おまえは病にかかっている」と言っていた。
心筋梗塞とかガンとか病にはいろいろあるけれど、死者に対する負い目という「病」もまた、人を死に至らしめることがある。だから、主人公は死んだように生きている。あるとき、自殺をするのは怖いので生きているだけだ、と告白する。こういう人を救うのは誰なのか?また、いかにして救うのか?

映画の中では、表面的には父親がその役割を果たす。今は亡き父親の霊が、娘に好意を寄せる男性と娘の仲を取り持つことで、娘を生の世界へと戻していく。そして「孫が欲しい」という最後の言葉が決定的なものとなって、娘はその男性と生きていくことを決心する。

しかし、その父親が幽霊であり、結局、主人公が作り出した幻、いわばフィクションであることが大切であるように思う。

この映画が描いているのは、主人公が一つの「物語」(フィクション)を生きている姿なのである。

全編を貫く亡父との会話が主人公の「創作」であるだけではない。主人公は図書館に勤め、さらに学生時代には地方の昔話を収集する作業に没頭していたのである。

その中の一つの昔話がとても印象的だ。

昔あるところにおじいさんとおばあさんがいて、あるときおばあさんが若返りの水を飲んで、しわが取れた。そこでおじいさんも早速その水を飲みに行ったのだが、なかなか戻ってこない。そこでおばあさんがおじいさんを捜しに行くと、そこにいたのは赤ん坊だった。そんなあらすじだ。

この物語は二つの意味でとても重要である。

一つは、おじいさんが赤ん坊になっている点で。つまり、人生の終わりの姿(おじいさん)と、人生の最初の姿(赤ん坊)が、奇跡的に接続されている。

この昔話が、映画の最後の「孫が欲しい」という亡父の言葉を生かしている。孫、すなわち赤ん坊とは、おじいさん(亡父)の変身した姿なのである。

この「奇跡」を行えるのは、主人公だけである。その使命に主人公は目覚めた。

自分の命が自分だけのものであるならば、それを捨てるかどうかは自分次第だという理屈も成り立つ。主人公もそう思っていたからこそ、自殺を口にすることもあった。しかし、最終的に主人公は、自分の命が父親からの「もらいもの」であり、それを預かっている自分の責任を知り、孫という形で、それをさらにバトンパスすることを決意する。そんな使命への目覚めが、主人公の病を治したのである。

もう一つ重要な点は、あの「昔話」を、主人公が父親の霊に語って聞かせていることだ。元々は地方の老人から聞いた昔話だが、今度は主人公が父親に話してあげているのである。昔から語り引き継がれている物語の輪の中に、主人公はこのようにして「参加」したのだ。

つまり、昔話もまた、引き継がれていく「命」なのである。

ここに、井上ひさしの慧眼がある。物語こそが、命そのものなのである。
しかも、人は物語ることでしか、罪の意識というフェイタルな病を治せないのである。

その物語は、どんなものでもいいというわけではない。
その物語は、死者と切迫した形で向き合うことによってのみ創造できるたぐいのものだ。
それは、死者とどうしても向き合わざるを得ないという状況で、適当な言い訳に逃げ込んで楽になるのではなく、誠実にその苦痛に耐え続ける者だけが語れるような物語だ。

あるとき、主人公は亡き友(この友は主人公にとってほとんど「もう一人の自分」であり、この意味でも主人公自身が一つの「死」を経験している)への思いを語るうちに、自分が抑圧していたものに気づく。それは亡父への負い目だった。死者(亡き友)の物語を語ることで、主人公はもう一人の死者(亡父)に向きあうことになる。

そして、主人公は亡き父を家に「住まわす」。
さらに、その亡き父と対話(主人公の作ったフィクション)を重ねる中で、主人公は実際に、自分の家に、もう一人の「死者」を住まわすことになる。それは、自分に好意を寄せる男性からの「預かりもの」、原爆に関する資料のことである。

こうして、主人公は、凡夫にとって「大勢」でしかない原爆での死者を、自分の家に住まわせ、プライベートな領域で引き受ける。主人公の「再生」は、このような使命を個人として正面から引き受けることを通して得られたのだ。

死者から遠ざかることではなく、死者を葬り去ることでもなく、まして、死者を忘れさることでもなく、ただ、「死者」を自分の家に住まわすことでのみ「負い目の病」は癒される。

そして蛇足ながら繰り返せば、そのような治癒は、医者ではなくフィクションがもたらしたのである。更に言えば、そのフィクションは、主人公が自分で作り上げたと言うよりは、自分の中に住まう死者からポッと差し出されたものを、主人公が受け取った「もらい物」なのだった。

2010年9月13日月曜日

噂のモーガン夫妻:明るいステレオタイプ化

保守的なのか、それとも21世紀の新しい世界観なのか、どっちだろうか。

物語の結末は、中西部の田舎町で、モーガン夫妻が住民たちに助けられて、めでたしめでたし、となる。
田舎万歳、共和党万歳、という見方もできる。
しかし、そのハッピーエンドも、住民たちが携行している銃によってもたらされていることが強調されている。住民たちが懐から取り出す銃の数々には笑ってしまう。その町の「善良な」人々は日常的に銃を持ち歩いていて、必要とあらばぶっ放すことをためらわないタイプなのである。ならば、これは巧妙な共和党批判なのだろうか。

もちろん答えはどちらでもない(のかもしれない)。そういう、何党だ、田舎だ都会だ、という見方をひっくり返すような新しさのあるのではないか、と感じさせる映画だった。

というのも、戯画化されているのは田舎の人々だけではないからだ。
モーガン妻は、徹底的にニューヨーカーとしてステレオタイプ化されている。
モーガン夫は、同じくイギリス紳士として、イギリス人が見ても笑い転げるほど(たぶん)誇張されて描かれている。もちろん彼らは民主党支持者だ。

「おまえはいつもこんなふうだぞ」と、多少相手の欠点を誇張して批判をぶっ放して許される相手など、そうそういるものではない。たぶん、「家族」以外には。

というわけで、この映画は「家族とは何か」と迫ってもくる。
夫妻は離婚の危機にある。それが、いろいろとあって、田舎町の住人の「親戚」として暮らすことを余儀なくされる。最後には、夫妻はよりを戻して、妻が妊娠するのだが、それでもなお彼らは養子(アジア系の赤ちゃん)を迎えるのである。

たぶんここにこの映画のキモがある。家族とは「他人」なのだよ、と教えてくれる。
この映画が、あらゆる人々を徹底的にステレオタイプ化して、それでもなお許されてしまうのは、おそらくその根底に、他人を家族として扱う視点があるからだろう。ステレオタイプ化しても笑っていられる関係はなかなかあるもんじゃないよ、だからそういう関係があったら大事にしなよ、という感じ。

そういえば、田舎の熟年夫婦のうちの夫だったか妻だったかが、夫との関係に悩むモーガン妻に、こんなことを言っていた。
「あなたの夫はあなたを笑わせてくれるんじゃないの?」
この言葉は、モーガン妻に強く響く。

というわけで、私たちを笑わせてくれるこの映画のことを、私たちも許してしまうことになる。





2010年8月27日金曜日

20世紀少年<最終章>:大人の夢物語とは

一昨日リジェクトされて戻って来たロンブンをレフリーの言い分通りに書き換えるという悲しい作業の最中でしたが、息抜きにテレビで20世紀少年の最終章とやらを見ました。
これがまたタイムリーな話だったので、一年ぶりにちょっと書きます。自分がどんな文体で書いていたのかも忘れたので、とりあえず「ですます」で。

物語の中心に、子供時代に友達と一緒になって遊びで書いた「よげんの書」があって、大人になった後、世界がその「よげんの書」の通りに進んでいく、というようなお話。それはもちろん偶然ではなくて、その友人たちの一人が後に独裁者になっていたからなのだが、そのあたりのお話はまぁいいとして。

私が面白いと思ったのは最後の部分で、大人になった主人公が不思議な装置を使って過去に戻り、子供時代に自分が犯した罪を、当時の自分にちゃんと謝らせるというくだりです。
ここにきてやっとこの映画が自分に響いてきたのは、私自身が大人だからでしょう。

子供時代の夢物語は、常に未来志向です。だからこの映画の子供たちは荒唐無稽な未来を思い描いていたわけです。

しかし、この映画の最後では、大人の夢物語を描いていたのです。
大人にとっての一番のフェアリーテールとは何か?
それは過去を書き換えることではないでしょうか。
子供時代の未来志向とは対照的に、大人の夢は過去志向なのです。

大人になるとはそういうことかもしれません。つまり、書き換えたい過去を持っていること。
この映画では、それが「謝罪」という形で、最後に連続して描かれます。
書き換えたい過去の最右翼は、つまり、最大の後悔とは、謝るべき時に謝らなかったことなわけです。
だから、最後の数分間で、主人公や他の重要人物が頭を下げたり土下座したりしています。

さて、そんなわけで、この「不可能な書き換えに関する映画」に励まされて、私もこれからロンブンの書き換え作業に戻るとします。


2009年8月2日日曜日

『おくりびと』:死んで赦される人々

主人公の初仕事は衝撃的なものであった。アパートで孤独死したおばあさんが、死後二週間して発見される。遺体は異臭を放っている。それを回収せねばならない。腐敗した遺体の足をつかみながら、彼は何度も嘔吐する。想像しうる限り「最悪」の死体である。

その日、彼が帰宅すると、妻が用意していた夕食は鶏鍋だった。鶏の「死体」を見て、彼はまた嘔吐する。

だが次の瞬間、彼は不可解な行動にでる。妻に抱きつき、妻の服を脱がしはじめるのである。なぜだろう?

この妻は、後に夫の仕事が納棺師であることを知り、「汚らわしい」と言って家を出て行く。しかし、何ヶ月かして突然戻ってくる。夫婦は和解する。妻は「あかちゃんができた」と言うのである。

不思議なことに、異臭を放っていたあの最悪の「死」も、こうして一つの命を「誕生」させたわけである。

死者を「プラスマイナスゼロ」にすること。死者の人生をイーブン・パーに戻すこと。言い換えれば、スタート地点に再び戻してやること。この映画が納棺師の仕事を通して描いているのは、そういうことのようだ。

この映画には種々多様な葬式が描かれている。だが、葬られる者たちには共通点がある。彼らはみな、生きている間はそれほど幸せではなかったようなのだ。肉親から認められていなかった者たちの葬式が延々描かれているのである。

最初は本木扮する主人公が死に顔を見て「きれいだ」とつぶやく「女性」。しかし、「彼女」は生物学的には男性だった。つまり、男として育てたかった両親を困惑させていた者が死んだのである。

暴走族の少女の死もしかり。両親は、少女の死後も彼女の髪の毛の色までも気に入らない。こんな子に育ってしまって、という思いが両親にある。

一人の母も、どうやら生前は夫に大切にされていなかったようだ。夫は妻の化粧には無頓着で、口紅のありかも分からない。最期、死に化粧を施された妻を見て、夫は初めて妻の美しさに気づく。

もっとも象徴的なのは、もちろん主人公の父親の死である。妻子を捨てて蒸発した父を、主人公はずっと許せないでいる。主人公にとっては罪深い人の死である。

いわば、死者たちはみな「負債」を抱えている。

しかし、主人公が行う納棺の儀式によって、死者が抱えていた人生の「負債」が、いつの間にか消え去っていく。プラマイゼロになる。

「女性」を生きてきた男は、納棺を通して女としての人格を両親に認められる。両親から責められ続けてきた暴走族の少女も、いや責められるべきは自分たちだったという悔い改めを両親にもたらす。生前はきれいだと言われたこともなかった妻も、ひとたび棺に納められると夫から最後の愛の告白を受ける。

急死した銭湯のおばさんも、最後のクリスマスを「他人」と過ごしたことから察せられるとおり、家族から大切にされていた人ではなかった。しかし、斎場で荼毘に付されるに至って、息子の心が大きく変化する。息子は涙を流しながら棺が炎に包まれていくのをじっと見つめ、「ごめんのぉ、ごめんのぉ」と母に手を合わせるのである。

主人公の父親もそうだ。息子に赦され、彼の人生は見事にイーブン・パーになった。なにも財産は築けなかった父だが、肉親から疎まれるという罪あるいは負債だけは、息子の執り行う納棺の儀を通して、帳消しになった。プラマイゼロ。そのことは、父の部屋の片隅に置かれていた小さな段ボール一箱が象徴的に示してもいた。

腐敗したおばあさんの死は、回り回って、離れかけた主人公夫婦の関係を「元に戻し」てくれた。そして30年不在だった父の死を境に、「夫は納棺師です」と公言できるようになった妻と共に主人公の人生もいわば二周目に入っていく。

イーブンパーは「ゼロ」だが、スタート時のゼロとは違う。一周回ってたどりついたゼロだ。

そんなイーブン・パーの不思議な充足感と共に、主人公は近く生まれてくる子供の「父親」として人生の二周目に進むことになるのだろう。

2009年6月21日日曜日

『セイブ・ザ・ラストダンス』:見られなくては意味がない

一応は、女子高生バレリーナの挫折と成功を描いた映画だろう。
彼女はジュリアードでダンスを専攻するため、実技の入試を受ける。しかし、母親がそのステージを観に来ていないことに動揺した彼女はダンスを失敗、しかも、会場へと急いでいた母は事故を起こして死んでしまう。彼女は別れた父に引き取られる。父の街はシカゴ。新しい学校は黒人の生徒ばかり。そこで彼女は恋をし、彼からヒップホップをたたき込まれ、もう一度ジュリアードのオーディションを受ける。舞台袖からは彼が見守ってくれている。さて結果はいかに……という筋立て。

これを、人生はやり直しがきくか、という物語としてみることもできるだろう。だいたい、最後のオーディションの場面は、あからさまに最初のオーディションの「やり直し」なのである。審査員まで同じだ。二度目のオーディションでも、舞台で一度演技を始めた主人公が、一度とちってもう一回やり直す、という念の入れようだ。

この大きな筋を中心にして、他にもさまざまな「やり直し」が描かれる。たとえば、母の死後、主人公を引き取った父親からみれば、これは親子関係のやり直しの物語である。主人公の彼は、かつては不良仲間と行動を共にし警察に追われることもあったが、物語の最後には仲間からの誘いをはねつける。その裏側では、やり直しのチャンスをとらえ損なう黒人青年たちの姿も描かれる。

主人公は、最初のオーディションで「母の不在」に動揺した。二回目は、「彼の不在」のせいで失敗しかける。しかし、そこに彼が駆けつける。こうして「やり直し」は成功する。

ここに答えがあるようだ。成功の秘密が。それは「人に観てもらうこと」である。

映画のはじまりから私が気になっていたのは、主人公が「人に見られること」に必要以上に敏感である点だった。

そもそも、オーディションで自分が踊る姿を母親が「見てくれるかどうか」が大きな問題だった。シカゴの黒人が圧倒的多数を占める高校では、白人の彼女はじろじろと見られる存在になる。その地区の病院の待合室でも、彼女は周囲から奇異の目で見られる。子供たちが彼女を無遠慮に見つめるのである。黒人の彼氏と地下鉄に乗っていたときも、中年白人女性が、いちゃつく二人の姿を絶えず盗み見している。後に二人の仲は危機を迎えるが、そのとき彼女が口にするのは「私たちが一緒にいるのを見て誰も喜んでいない」という言葉だ。自分たちのような黒人と白人のカップルを見て周りの人々が喜んでくれない。そこを気にすることで、彼女は彼との関係をこじらせていく。

しかし、「だから人がどう思うかなんて気にするな」という話ではない。
この映画は「我が道を行け」と言っているのではない。むしろ逆だ。
人に見られてこそ幸福がある、ということのようだ。

地下鉄の場面を思い出したい。あのとき、おばさんにじろじろと見られることを、彼女は楽しんでいたのだった。あるいは映画の冒頭では、オーディションで踊る姿を、母に見てもらいたくて仕方がなかったのだった。最後のオーディションで「やり直し」が成功するのも、結局は、駆けつけた彼が彼女の踊りを「見ていてくれるから」だった。

今思い出したが、そういえば、彼女が新しい高校で最初に受けた授業の一コマが案外重要なのではないだろうか。後に彼女の彼氏になる男子生徒が、彼女に向かって「リチャード・ライトとかジェイムズ・ボールドウィンとか読んだことがないだろう」と言ったのだ。二人とも偉大な黒人作家だ。そのとき、彼女はその問いに対して絶句した。どうやら彼女は黒人作家のことを知ってはいても、彼らの作品を「見てはいなかった」ようなのである。

この後彼女は、黒人の彼の姿を「見る」ようになる。込んだクラブで彼が踊る姿をちょっとすねながら彼女が離れて見つめている場面も印象的だ。ちょっと高くなったところにいる彼女が、群衆の中の彼を見つめ、彼がそれにハッと気づいて彼女の元にやってくる。まなざしが交換されるこの場面こそが、二人の仲を決定的に深めた瞬間だと思う。

ここに、現代のアメリカ社会において「相手を見る」ことの現実的な意味があるようだ。それぞれの人種が我が道を行っても、その果てには幸福はないということである。だから、オーディションの審査員たちは、彼女の踊りの中に白人のバレエと黒人のヒップホップのハーモニーを見て、この映画は終わる。アメリカが「やり直し」て目指さねばならない姿がそこにある。

(蛇足だが、音楽的には、白人歌手のヒット曲を黒人歌手がカバーしているヴァージョンが使われていて、印象的だった。彼女の決めぜりふ--"Nobody wants to see us together."--もAkonの歌を思い出させるし。ただ、Akonの歌詞は「みんな俺たちのこと気に入らないみたいだけど、そんなの関係ねぇ」って続くから、二人がみんなに認められていくこの映画の筋とは違うのだが。Akonはこの映画を見間違えてしまったのだろうか?笑 ちなみに、こんな歌です。