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2010年9月13日月曜日

噂のモーガン夫妻:明るいステレオタイプ化

保守的なのか、それとも21世紀の新しい世界観なのか、どっちだろうか。

物語の結末は、中西部の田舎町で、モーガン夫妻が住民たちに助けられて、めでたしめでたし、となる。
田舎万歳、共和党万歳、という見方もできる。
しかし、そのハッピーエンドも、住民たちが携行している銃によってもたらされていることが強調されている。住民たちが懐から取り出す銃の数々には笑ってしまう。その町の「善良な」人々は日常的に銃を持ち歩いていて、必要とあらばぶっ放すことをためらわないタイプなのである。ならば、これは巧妙な共和党批判なのだろうか。

もちろん答えはどちらでもない(のかもしれない)。そういう、何党だ、田舎だ都会だ、という見方をひっくり返すような新しさのあるのではないか、と感じさせる映画だった。

というのも、戯画化されているのは田舎の人々だけではないからだ。
モーガン妻は、徹底的にニューヨーカーとしてステレオタイプ化されている。
モーガン夫は、同じくイギリス紳士として、イギリス人が見ても笑い転げるほど(たぶん)誇張されて描かれている。もちろん彼らは民主党支持者だ。

「おまえはいつもこんなふうだぞ」と、多少相手の欠点を誇張して批判をぶっ放して許される相手など、そうそういるものではない。たぶん、「家族」以外には。

というわけで、この映画は「家族とは何か」と迫ってもくる。
夫妻は離婚の危機にある。それが、いろいろとあって、田舎町の住人の「親戚」として暮らすことを余儀なくされる。最後には、夫妻はよりを戻して、妻が妊娠するのだが、それでもなお彼らは養子(アジア系の赤ちゃん)を迎えるのである。

たぶんここにこの映画のキモがある。家族とは「他人」なのだよ、と教えてくれる。
この映画が、あらゆる人々を徹底的にステレオタイプ化して、それでもなお許されてしまうのは、おそらくその根底に、他人を家族として扱う視点があるからだろう。ステレオタイプ化しても笑っていられる関係はなかなかあるもんじゃないよ、だからそういう関係があったら大事にしなよ、という感じ。

そういえば、田舎の熟年夫婦のうちの夫だったか妻だったかが、夫との関係に悩むモーガン妻に、こんなことを言っていた。
「あなたの夫はあなたを笑わせてくれるんじゃないの?」
この言葉は、モーガン妻に強く響く。

というわけで、私たちを笑わせてくれるこの映画のことを、私たちも許してしまうことになる。





2010年8月27日金曜日

20世紀少年<最終章>:大人の夢物語とは

一昨日リジェクトされて戻って来たロンブンをレフリーの言い分通りに書き換えるという悲しい作業の最中でしたが、息抜きにテレビで20世紀少年の最終章とやらを見ました。
これがまたタイムリーな話だったので、一年ぶりにちょっと書きます。自分がどんな文体で書いていたのかも忘れたので、とりあえず「ですます」で。

物語の中心に、子供時代に友達と一緒になって遊びで書いた「よげんの書」があって、大人になった後、世界がその「よげんの書」の通りに進んでいく、というようなお話。それはもちろん偶然ではなくて、その友人たちの一人が後に独裁者になっていたからなのだが、そのあたりのお話はまぁいいとして。

私が面白いと思ったのは最後の部分で、大人になった主人公が不思議な装置を使って過去に戻り、子供時代に自分が犯した罪を、当時の自分にちゃんと謝らせるというくだりです。
ここにきてやっとこの映画が自分に響いてきたのは、私自身が大人だからでしょう。

子供時代の夢物語は、常に未来志向です。だからこの映画の子供たちは荒唐無稽な未来を思い描いていたわけです。

しかし、この映画の最後では、大人の夢物語を描いていたのです。
大人にとっての一番のフェアリーテールとは何か?
それは過去を書き換えることではないでしょうか。
子供時代の未来志向とは対照的に、大人の夢は過去志向なのです。

大人になるとはそういうことかもしれません。つまり、書き換えたい過去を持っていること。
この映画では、それが「謝罪」という形で、最後に連続して描かれます。
書き換えたい過去の最右翼は、つまり、最大の後悔とは、謝るべき時に謝らなかったことなわけです。
だから、最後の数分間で、主人公や他の重要人物が頭を下げたり土下座したりしています。

さて、そんなわけで、この「不可能な書き換えに関する映画」に励まされて、私もこれからロンブンの書き換え作業に戻るとします。


2009年8月2日日曜日

『おくりびと』:死んで赦される人々

主人公の初仕事は衝撃的なものであった。アパートで孤独死したおばあさんが、死後二週間して発見される。遺体は異臭を放っている。それを回収せねばならない。腐敗した遺体の足をつかみながら、彼は何度も嘔吐する。想像しうる限り「最悪」の死体である。

その日、彼が帰宅すると、妻が用意していた夕食は鶏鍋だった。鶏の「死体」を見て、彼はまた嘔吐する。

だが次の瞬間、彼は不可解な行動にでる。妻に抱きつき、妻の服を脱がしはじめるのである。なぜだろう?

この妻は、後に夫の仕事が納棺師であることを知り、「汚らわしい」と言って家を出て行く。しかし、何ヶ月かして突然戻ってくる。夫婦は和解する。妻は「あかちゃんができた」と言うのである。

不思議なことに、異臭を放っていたあの最悪の「死」も、こうして一つの命を「誕生」させたわけである。

死者を「プラスマイナスゼロ」にすること。死者の人生をイーブン・パーに戻すこと。言い換えれば、スタート地点に再び戻してやること。この映画が納棺師の仕事を通して描いているのは、そういうことのようだ。

この映画には種々多様な葬式が描かれている。だが、葬られる者たちには共通点がある。彼らはみな、生きている間はそれほど幸せではなかったようなのだ。肉親から認められていなかった者たちの葬式が延々描かれているのである。

最初は本木扮する主人公が死に顔を見て「きれいだ」とつぶやく「女性」。しかし、「彼女」は生物学的には男性だった。つまり、男として育てたかった両親を困惑させていた者が死んだのである。

暴走族の少女の死もしかり。両親は、少女の死後も彼女の髪の毛の色までも気に入らない。こんな子に育ってしまって、という思いが両親にある。

一人の母も、どうやら生前は夫に大切にされていなかったようだ。夫は妻の化粧には無頓着で、口紅のありかも分からない。最期、死に化粧を施された妻を見て、夫は初めて妻の美しさに気づく。

もっとも象徴的なのは、もちろん主人公の父親の死である。妻子を捨てて蒸発した父を、主人公はずっと許せないでいる。主人公にとっては罪深い人の死である。

いわば、死者たちはみな「負債」を抱えている。

しかし、主人公が行う納棺の儀式によって、死者が抱えていた人生の「負債」が、いつの間にか消え去っていく。プラマイゼロになる。

「女性」を生きてきた男は、納棺を通して女としての人格を両親に認められる。両親から責められ続けてきた暴走族の少女も、いや責められるべきは自分たちだったという悔い改めを両親にもたらす。生前はきれいだと言われたこともなかった妻も、ひとたび棺に納められると夫から最後の愛の告白を受ける。

急死した銭湯のおばさんも、最後のクリスマスを「他人」と過ごしたことから察せられるとおり、家族から大切にされていた人ではなかった。しかし、斎場で荼毘に付されるに至って、息子の心が大きく変化する。息子は涙を流しながら棺が炎に包まれていくのをじっと見つめ、「ごめんのぉ、ごめんのぉ」と母に手を合わせるのである。

主人公の父親もそうだ。息子に赦され、彼の人生は見事にイーブン・パーになった。なにも財産は築けなかった父だが、肉親から疎まれるという罪あるいは負債だけは、息子の執り行う納棺の儀を通して、帳消しになった。プラマイゼロ。そのことは、父の部屋の片隅に置かれていた小さな段ボール一箱が象徴的に示してもいた。

腐敗したおばあさんの死は、回り回って、離れかけた主人公夫婦の関係を「元に戻し」てくれた。そして30年不在だった父の死を境に、「夫は納棺師です」と公言できるようになった妻と共に主人公の人生もいわば二周目に入っていく。

イーブンパーは「ゼロ」だが、スタート時のゼロとは違う。一周回ってたどりついたゼロだ。

そんなイーブン・パーの不思議な充足感と共に、主人公は近く生まれてくる子供の「父親」として人生の二周目に進むことになるのだろう。

2009年6月21日日曜日

『セイブ・ザ・ラストダンス』:見られなくては意味がない

一応は、女子高生バレリーナの挫折と成功を描いた映画だろう。
彼女はジュリアードでダンスを専攻するため、実技の入試を受ける。しかし、母親がそのステージを観に来ていないことに動揺した彼女はダンスを失敗、しかも、会場へと急いでいた母は事故を起こして死んでしまう。彼女は別れた父に引き取られる。父の街はシカゴ。新しい学校は黒人の生徒ばかり。そこで彼女は恋をし、彼からヒップホップをたたき込まれ、もう一度ジュリアードのオーディションを受ける。舞台袖からは彼が見守ってくれている。さて結果はいかに……という筋立て。

これを、人生はやり直しがきくか、という物語としてみることもできるだろう。だいたい、最後のオーディションの場面は、あからさまに最初のオーディションの「やり直し」なのである。審査員まで同じだ。二度目のオーディションでも、舞台で一度演技を始めた主人公が、一度とちってもう一回やり直す、という念の入れようだ。

この大きな筋を中心にして、他にもさまざまな「やり直し」が描かれる。たとえば、母の死後、主人公を引き取った父親からみれば、これは親子関係のやり直しの物語である。主人公の彼は、かつては不良仲間と行動を共にし警察に追われることもあったが、物語の最後には仲間からの誘いをはねつける。その裏側では、やり直しのチャンスをとらえ損なう黒人青年たちの姿も描かれる。

主人公は、最初のオーディションで「母の不在」に動揺した。二回目は、「彼の不在」のせいで失敗しかける。しかし、そこに彼が駆けつける。こうして「やり直し」は成功する。

ここに答えがあるようだ。成功の秘密が。それは「人に観てもらうこと」である。

映画のはじまりから私が気になっていたのは、主人公が「人に見られること」に必要以上に敏感である点だった。

そもそも、オーディションで自分が踊る姿を母親が「見てくれるかどうか」が大きな問題だった。シカゴの黒人が圧倒的多数を占める高校では、白人の彼女はじろじろと見られる存在になる。その地区の病院の待合室でも、彼女は周囲から奇異の目で見られる。子供たちが彼女を無遠慮に見つめるのである。黒人の彼氏と地下鉄に乗っていたときも、中年白人女性が、いちゃつく二人の姿を絶えず盗み見している。後に二人の仲は危機を迎えるが、そのとき彼女が口にするのは「私たちが一緒にいるのを見て誰も喜んでいない」という言葉だ。自分たちのような黒人と白人のカップルを見て周りの人々が喜んでくれない。そこを気にすることで、彼女は彼との関係をこじらせていく。

しかし、「だから人がどう思うかなんて気にするな」という話ではない。
この映画は「我が道を行け」と言っているのではない。むしろ逆だ。
人に見られてこそ幸福がある、ということのようだ。

地下鉄の場面を思い出したい。あのとき、おばさんにじろじろと見られることを、彼女は楽しんでいたのだった。あるいは映画の冒頭では、オーディションで踊る姿を、母に見てもらいたくて仕方がなかったのだった。最後のオーディションで「やり直し」が成功するのも、結局は、駆けつけた彼が彼女の踊りを「見ていてくれるから」だった。

今思い出したが、そういえば、彼女が新しい高校で最初に受けた授業の一コマが案外重要なのではないだろうか。後に彼女の彼氏になる男子生徒が、彼女に向かって「リチャード・ライトとかジェイムズ・ボールドウィンとか読んだことがないだろう」と言ったのだ。二人とも偉大な黒人作家だ。そのとき、彼女はその問いに対して絶句した。どうやら彼女は黒人作家のことを知ってはいても、彼らの作品を「見てはいなかった」ようなのである。

この後彼女は、黒人の彼の姿を「見る」ようになる。込んだクラブで彼が踊る姿をちょっとすねながら彼女が離れて見つめている場面も印象的だ。ちょっと高くなったところにいる彼女が、群衆の中の彼を見つめ、彼がそれにハッと気づいて彼女の元にやってくる。まなざしが交換されるこの場面こそが、二人の仲を決定的に深めた瞬間だと思う。

ここに、現代のアメリカ社会において「相手を見る」ことの現実的な意味があるようだ。それぞれの人種が我が道を行っても、その果てには幸福はないということである。だから、オーディションの審査員たちは、彼女の踊りの中に白人のバレエと黒人のヒップホップのハーモニーを見て、この映画は終わる。アメリカが「やり直し」て目指さねばならない姿がそこにある。

(蛇足だが、音楽的には、白人歌手のヒット曲を黒人歌手がカバーしているヴァージョンが使われていて、印象的だった。彼女の決めぜりふ--"Nobody wants to see us together."--もAkonの歌を思い出させるし。ただ、Akonの歌詞は「みんな俺たちのこと気に入らないみたいだけど、そんなの関係ねぇ」って続くから、二人がみんなに認められていくこの映画の筋とは違うのだが。Akonはこの映画を見間違えてしまったのだろうか?笑 ちなみに、こんな歌です。

2009年5月30日土曜日

金子みすゞの「わたしと小鳥とすずと」の読み方

今回も映画でなくてすみません!

先日、教室の学生たちに手を挙げさせてみたら、全員が金子みすゞの詩「わたしと小鳥とすずと」を知っていた。小学校の国語や道徳で習ったのだという。だいたいこんな詩だ。

 わたしが両手をひろげても
 お空はちっともとべないが

 とべる小鳥はわたしのように
 地面(地べた)をはやくは走れない
 
 (中略)

 すずと、ことりと、それからわたし

 みんなちがって みんないい

ネットで検索すれば多くの先生たちがこの詩を使った授業を紹介していることがわかる。私の学生たちも小学生の頃そのような授業を受けていた。「一人一人を大切にする心を身につけよう」みたいな個性礼賛的な読まれ方をしている、という。もっともなことだ。この詩の最後の一行には「みんなちがって、みんないい」とある。

しかし、ほんとうに個性万歳、みたいな詩なのだろうか。

ここで金子みすゞには「循環グセ」があったことを思い出してみたい。たとえば、「木」という詩では、四季の中で変化してしていく木について書いているのだけれど、金子は非常に奇妙な表現を使っている。


 お花が散って
 実が熟れて、
 その実が落ちて
 葉が落ちて、

 (中略)

 そうして何べん
 まわったら、
 この木は御用が
 すむかしら。

誰でも「まわったら」という表現が気になるだろう。どうやら金子の目には、木が「まわる」ものとして映っているのである。それは木が物理的に回転しているということではなくて、四季という一つの「循環」の中に存在しているということだろう。

この「循環」は、第一行「お花が散って」がさりげなく示している。
ヘボ詩人なら「お花がさいて」と書き始めただろう。ヘボ詩人は、生物は生まれそして死んでいく、という直線的な世界観で生きているからだ。しかし、金子は「死」を一番先におく。花が散る、葉が落ちる。そう書いてから、次に「芽が出て花が咲く」と書く。死んで生まれる。

この逆転が可能になるのは、金子が時間を直線ではなく円としてとらえているからである。生と死が円の上の二点なら、生物たちは、生→死→生→死、をひたすら繰り返すことになる。つまり、円上のある地点では、死んで生まれるという「逆転」が可能になる。(本当は「逆転」でも何でもない。それが「逆転」に見えてしまうのは、私たちの多くが直線的な時間観を持って生きているからである)。誕生よりも死が先にあるという金子の世界観は、金子が時間を「循環」する輪としてみなしているからこそなのだ。

このような金子の循環グセについては別の本(東大入試なんちゃらという本)で他の詩も参照しながら書いたので、詳しくは、直ちに右側のアマゾンのリンクをクリックして、あまり深く考えずに購入していただきたい(笑)

さて、この循環癖を踏まえて、「わたしと小鳥とすずと」の「みんなちがって、みんないい」を読んでみてはどうだろうか。つまり、この詩は一つの循環の中の三者について歌っているのではないか、と考えてみたい。いわば「打順」の詩ではないのか、と。ためしに、こう書き換えてみたらどうだろう。

松井が右手をひねっても、
ボールはちっとも曲がらないが、
曲がる松坂は松井のように、
ボールを遠くに飛ばせない。

松井がからだをゆすっても、
はやくは走れないけれど、
走れるイチローは松井のように、
たくさんホームランは打てないよ。

イチローと、松坂と、それから松井、
みんなちがって、みんないい。

この詩の出来損ないを読んで、ここには「個性を大切にしよう」というメッセージがある、という感じにまとめてしまうと、半分ぐらいしか読んだことにならない。

これは野球の詩(みたいなもの)である。野球選手には、それぞれのポジションがあり、それぞれの打順がある。各選手の特性を「個性」と呼ぶのは不正確である。むしろ大切なのは各選手の異なった「役割」なのである。打順という一つの「循環」の中では、ある特性を持つことで選手が得るのは、たんに気ままに振る舞う自由ではなく、個性に応じた「役割」なのである。

循環癖を持つ金子が書いた「わたしと小鳥とすずと」も、個性ではなく、役割のことを言っている。私はそう思う。

単独で存在し、ばらばらの方向を向くことを許すことにもなる「個性」を礼賛しているのではなく、個々の存在は、大きな「循環」の中で結びついている。その中でそれぞれが異なった役割を担っているんだなぁ、という感慨を金子は描いているのだろう。あらゆる生物はつながっていて、循環していて、(有名な「大漁」も「積もった雪」もつながりについての詩だ)その関係性はなかなか目にはみえないけれども、みえなくてもあるんだよ、ということだ。そんな見えにくいつながりを、三番目に登場する「すず」は示しているのかもしれない。ついつい生き物ですらない「すず」をもってきたのは、「すず」が「わたし」である金子み「すゞ」とつながっていることを、金子が心のどこかで感じ取っていたからだろう。

金子は、「葉が落ちて、それから芽が出て、花が咲く」と書いた。野球でも、自分が犠牲バントで「死んで」、別の走者を進めて、得点する。「わたしと小鳥とすずと」も、それぞれが個性に応じた「役割」を担うことで、世界全体が丸く収まっていることを示しているように思う。

最近、自分の「個性」という幻想を真に受けた若者たちが、会社で「役割」を担うことを嫌って、すぐに退社していくという。いや、私は世相を嘆いているのではなく、自分自身、循環あるいは「見えない結びつき」に気づくのに時間がかかりすぎたと反省をしているのである。

2009年5月24日日曜日

すべての手塚漫画は弔辞である

映画じゃないですが、手塚治虫の漫画についてもう少しだけ。

いきなり「すべての手塚漫画は弔辞である」なんて大風呂敷をひろげてしまうと、「すべての人間は生まれ、やがて死ぬ」みたいにおおざっぱすぎて意味がない、ということは承知している。しかし、そう言い切ってみたくなってしまったのは、さきほどNHKで『ジャングル大帝』の最終回をみたからだ。

吹雪の山の中で、主人公の白いライオン・レオが死ぬ。一緒に山を下りるヒゲオヤジに自分の肉を食わせ、毛皮をまとわせるためだ。レオはヒゲオヤジに「記録」を持ち帰らせようとしていた。それは物語上は「月光石」なるものの記録なのだが、本当はそんなことはどうでもよくて、実は、死んだ者の「記録」なのだろう。なぜなら、ヒゲオヤジがこう言うからだ。

「おまえのことをジャングル中に話してやるよ。レオは死ぬまで立派なジャングル大帝であった……とね」。

そしてまもなく山を下りたヒゲオヤジは、レオの息子ルネと偶然出会う。二人はジャングルへ戻っていく。こう語り合いながら。

「帰ったらみんなにな、お父さんがどんなに立派だったかを話してやろうな」

この繰り返しが、すべてを語っているのではないだろうか。
この地点から『ジャングル大帝』全体を振り返ってみれば、この長大な漫画自体が「死んだお父さん(レオ)がどんなに立派だったか」というエピソードの集積に他ならないことがわかる。いわば、この漫画は壮大な「弔辞」だったのである。

この最終回を知らなければ、私も『ジャングル大帝』を子ライオンのレオが成長していく物語だと思ったかもしれない。しかし、時間の流れは子供→大人、という普通の方向ではないようだ。むしろ、大人→子供、という過去へとさかのぼる方向なのだ。つまり、これはお父さんがまだ子供だった頃の物語、あるいは、死者がまだ生きていた頃の物語、なのである。それを死者の家族(息子)が、あるいは死者の化身が、私たちに語って聞かせる、という形なのだ。

いきなり私は「すべての手塚漫画は弔辞である」と言い切ったが、実際には、私はまだ『手塚治虫名作集』なるものを3冊読んだだけなので、ハッタリもはなはだしい。しかし、その三冊も、同様な話ばかりであった。ただ、「死者」の形にヴァリエーションがあるだけである。

『名作集』の第二巻の巻末に、立川談志が解説を書いている。そのなかで、「アイディアは安売りできるほど(たくさん)ありますよ」という手塚の言葉を紹介している。しかし、はたして本当にそうだったのだろうか。

『名作集』に描かれているのは、たった一つのことだ。脱線事故を起こす蒸気機関車であれ、焼失する樹齢1200年の大樹であれ、風に吹き飛ばされていくポスターであれ、お岩さんの亡霊であれ、都市から閉め出された妖怪たちであれ、すべてが「死者」なのである。そして、彼らは、孤児を拾い上げ、いわば「義理の息子」として育て上げる。そして、遺された「息子」たちが、時間の流れに抗って、死者について語るのである。

本物の作家は本物の問題と向き合っている。芸術家にとっての本物の問題とは、元来、解決が不可能な問題だと私は思っている。最終解答が決して得られない問題だから、本当の問題と向き合う作家は、何度も何度も同じ話を書いてしまうのである。夏目漱石が三角関係の話ばかりを書いたり、宮沢賢治が食ったり食われたりする話を書き続けたりしたのと同じように、手塚は死者と孤児の物語ばかりを繰り返し書いた。ライオンのレオも両親を失い、人間に育てられた孤児だ。ロボットのアトムも、ある科学者の死んだ息子の化身であり、その科学者から捨てられた後、別の「親」に引き取られた孤児である。『名作集』もその手の話ばかりである。時間はさかのぼらない。死者は生き返らない。しかし、それでもなお手塚は、時間の中に葬り去られていく死者たちついて、いわば彼らの「義理の息子」(もらわれっ子)として語り続けるという重大な使命を果たそうとする。

立川談志は手塚を「天才」と呼ぶ。私もそう思う。しかしそれは、「アイディアが無限にある」からではなく、解決可能な問題にしか向き合えない凡人とは違っていた、という意味においてだ。手塚は自分にとって重要だが解決のできない問題――時間に逆らって、死者について「義理の息子」として語り続けること――への責任を果たし続けた、という点において「天才」なのだと思う。

2009年5月17日日曜日

「ころすけの橋」:手塚治虫が追いつけなかったもの

NHKBS2で、手塚治虫の「ころすけの橋」という短編漫画を見た。
ゲスト出演していた評論家の宮崎哲弥によると、作品に描かれているのは、人間と自然の単純な調和ではなく、二者の対立関係だという。もちろんそれは「あらすじ」の話である。
ある日、ニホンカモシカのリーダー「キヨモリ」が群れをしたがえて吊り橋を渡っていると、一匹の子ジカが板の間に足を挟まれて動けなくなる。群れは去り、子ジカは橋の上に取り残される。それを主人公の少年が見つけ、「ころすけ」と名付けて世話をしてやる。「キヨモリ」も、つかず離れず、「ころすけ」と少年を見つめ、守ってくれている。そのまま冬を越し、「ころすけ」が大人になりかけていた頃、シカの食害に憤った村民たちに、群れは殺される。キヨモリもころすけも。少年は号泣する。
おそらく宮崎氏は物語をこのように要約し、理解したのだろう。
しかし、私がおもしろかったのは、この短編漫画が、一匹の昆虫の話から始まっていることだった。そもそも手塚治虫なんだから、虫に注目しない手はない。「あらすじ」にたどり着く前の前置きに注目したい。
「ハンミョウって虫を知ってっかい?」と少年はいう。
山道で突然飛んできて、道に降り立ち、そこまで人間が歩いていくと、また先に飛んでいってこっちを見ている、という憎たらしい虫なのだという。
「キヨモリがそのハンミョウにそっくりだった」。少年がそう言うのは、キヨモリも、少年が近づこうとすると、常にちょっと先を逃げ続けるからだ。そんなキヨモリにイライラしてしまうのは、少年が別の悩みを抱えているからでもあった。
少年の母が家出をしたのである。父親の職業は「炭焼き」。最近の電化製品に押されて、炭がちっとも売れない。それがもとで両親はけんかし、母が出て行ったのだ。
一見、無駄にも思えるこの導入部分は、重要である。なぜなら、物語の最後で、きちんと母親が再登場するからだ。キヨモリやころすけが死んだ後、なぜか母親が家に戻ってくることを少年は知る。つまり、この短編物語は、母の不在のうちに起きた出来事なのである。
「お母さんがいない!」という叫びが、この物語の根底にある。これは「置き去り」の物語なのである。
母に置き去りにされた自分のように、群れに取り残されたころすけ。そこで、少年はころすけの「母親」になる。すると、これまでずっと少年を「置き去り」にしていた「キヨモリ」までが近づいてくる。
いくら追いかけても手の届かない対象が、「ころすけの橋」の上という特殊な空間でなら、追いつけそうな気がする。
しかし、少年は現実に引き戻される。シカのせいで村の経済が悪くなる。そこでシカたちは殺される。当然、村の経済はよくなったはずだ。すると、母親が戻ってくる。炭焼きという商売がうまくいかなくなって家族を置き去りにした母親が、景気がよくなると戻ってくる。少年の母親を呼び戻したのは、経済の回復だったのだ。
しかし、「お母さんがいない」ことが解決すると、別のものがいなくなる。
経済の回復は、シカが死ななければもたらされることはなかった。だから少年にとって、母の帰還はハッピーエンドではない。お母さんが戻ってきたのに、幸せではない。あらたに「足りないもの」ができしまった。もちろん、死んでしまったキヨモリところすけである。死んだシカのせいで、少年は幸せに決して手が届くことがない。
つまり、彼はこれから先、幸せに「追いつく」ことはできない。
あの「キヨモリ」の幽霊には決して追いつけないのである。
物語の結末、母が戻ってきた後もなお、花束をもって「ころすけの橋」を訪れた少年は、花束を自ら蹴散らしながら、「バッキャロ~!!」と叫ぶ。
するとそこに、ころすけそっくりの子ジカが現れる。少年は「ころすけ」と呼ぶ。しかし、その子ジカは、少年に背中を向けて走り去っていく。少年を「置き去り」にしていく。そして、少年の一言で幕は閉じる。
「また、あいつに会いたいなぁ」
しかし、それは無理なのである。少年には「決して手の届かないもの」ができてしまった。この漫画が子ジカの成長を通して描いていたのは、少年が大人になる姿だったわけだ。経済がよくなっても、母親が戻ってきても、決して埋められない心の空白を持って、少年は生きていく。「大人になったらわかる」と父親は言う。しかし、もう少年は大人なのである。手塚治虫にとって、大人かどうかは、どんな努力をしても決して追いつくことができない何かがあることを自覚しているかどうか、なのである。とても陰鬱な大人観である。しかし、妙に納得のいく大人の基準である。
では、手塚治虫にとって、それは何だったのだろう。彼は、決して追いつけない何を追いかけていたのだろうか。
この物語は少年の家業である炭焼きが、時代に「置き去り」にされ、時代に「追いつけ」なくなったところから始まっていた。そして漫画の冒頭には、決して追いつくことのできない「虫」(ハンミョウ)が描かれていた。だとすれば、治「虫」が追いかけていたのは、一つには、自分自身の昔の姿だったのではないだろうか。
ーーーーーー
追記2013年7月28日
漫画冒頭でハンミョウが描かれるその前に、「テッペンカケタカ」という鳥の鳴き声が森に響き渡っている。その鳴き声はホトトギスのものである。
これは最近になって理系の学生に教えてもらったことだが、ホトトギスは托卵(たくらん)をする鳥なのだという。つまり、ホトトギスとは、別の鳥の巣に自分の卵を産み、子育てを他人任せにする鳥なのだ。
だとすれば、「お母さんがいない」主人公やシカを描いたこの物語には、手塚がアトムで描いているような「代理親の主題」もあったわけだ。