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2015年3月7日土曜日

『川の底からこんにちは』: 泥とウンチが母なのさ

見終えて、この映画を作った人って天才だなと思って、監督の名前(石井裕也)を検索したら、すでに天才扱いされている人でした。私の無知さ加減も「中の下」よりさらに下です。

さて、ズバリこの映画は「出産」の場面から始まっている。ただ、ベッドに横たわる主人公(満島ひかり)が生み出すのは赤ん坊ではなくて、ウンチだ。

一応、これは便秘の治療として描かれてはいる。だが、このあと主人公の職場で、仕事に退屈している同僚が自分たちの状況を「どん詰まり」と表現するとき、便秘の意味がはっきりする。便秘というウンチの詰まり具合の解決が、同時に主人公の「どん詰まり」のジンセイの解決にもなる、ということだろう。しかしそれにしても、なんでウンチなの? どうしてウンチが出れば、ジンセイもOKなの? そんな疑問を抱きながら、私たちは映画を見続ける。

主人公の恋人は職場の課長で、バツイチの子連れだ。さえない男で、自分が企画した玩具も全然売れていない。商品テストで、実際にそのおもちゃを子供に与えて遊ばせてみても盛り上がらず、あげくにオシッコを漏らした子供が、そのおもちゃを主人公に投げつけてくるほどだ。あまりの痛さに、彼女はオシッコの中にへたり込んでしまう。

それは実に変なおもちゃで、白い割烹着らしきものを着た「お母さん」の人形に車が付いていた。そんな白い母を、オシッコ男が主人公に投げつけたのである。わざわざ繰り返したのは、芸の細かいことにラストシーンでこの場面が再現されているからだ。ただそこでは、白い母は白い父に、オシッコ男はオシッコ/ウンチ女に、アレンジされている。

ラストでは、かつて便秘に苦しみ、子供のオシッコにまみれていた主人公が恋人(おもちゃの失敗者)に向けて、亡き父(事業の失敗者)の遺骨を繰り返し投げつける。骨の白さは画面に映っている。そんな「白い父」を投げつけられ、その場にへたり込む男の姿は、かつて職場で「白い母」を投げつけられた主人公に重なっている。つまり、「どん詰まり」と評された職場が、映画のラストに呼び出されているのだ。いったい何のために? それは、最後に「どん詰まりのウンチ」がドバーッとはき出される様子を描くためだ。

つまりラストは、一つの出産の瞬間、新しい誕生の場面なのである。この映画は、ウンチが生命の源であることをさりげなく描いてきたのだった。6歳で母を亡くした主人公は、くみ取り便所からウンチをくみ出して、それを河原に捨てる作業を日課としていた(だがそのウンチが「泥」にしか見えないところが念入りだ。あれはアサリの住む泥でもあるのだ)。父の死期が近いことを知って恋人と実家に戻ってからも、彼女はウンチを河原にまいている。恋人は臭がるだけだ。だが彼女は、そんな河原に咲いていた一輪の花を摘んで父の見舞いに持って行く。いわばウンチの花が、父の生命を少しでも支えてくれることを願うかのように。

父の死と同時に、同じ河原で見つかったのは、季節外れの大きなスイカだった。それは直接的に、ウンチが「生み出した」実だ。そのうえ、かつて主人公は、自分には「スイカのようなおっぱいがないから男に捨てられる」と言っていた。ならば、スイカとは大きなおっぱいでもあるわけだ。まさに、母が子に与える命の源として、おっぱい=スイカ=ウンチの実、が最後に登場したのである。

父の葬儀に集まった人々は、そのスイカを食べている。そしてそんな人々の目の前で、主人公が父の骨を恋人に投げつける場面が繰り広げられたのである。そのとき主人公は、自分のことを「中の下」の人間だと叫ぶ。そんな彼女に、骨を投げつけられている男もまた中の下、いや端的に言ってウンコ野郎なのである(主人公の友人と浮気をし、我が子をも見捨て、主人公の弱った父を突き倒した、ほんとのウンコ野郎なのだ)。

生前、父はウンコ野郎の本質を見抜き、娘に結婚を思いとどまるよう忠告していた。しかし、そのとき娘(主人公)は言ったのだった。

「わたし結婚するわ、逆に!」

エリートではなく、むしろウンコ野郎との結婚から何かが生まれてくる。ちょうど、川底のドロの中からシジミが生まれて育ってくるように。そんな「サトリ」も、決して高尚な台詞で語られたりしない(格好付けたことを言うヤツは、妻に殴り倒される)。ウンチの両義性を論じたロシアの思想家バフチンのラブレー論(だったっけ?)的な主張は、中の下の台詞で表現されてこそなのである。

だからこの話は父の死を通して語られる、主人公/母の再生の物語であるだけではなくて、主人公の生命を養ってきた母としてのシジミの物語でもあり(亡父はシジミ加工工場を経営していた)、さらに、シジミを育ててきた母としての川底の泥(ウンチ的なもの)の物語だった、ということだ。温暖化やダイオキシンの話題がちょくちょく出てくるのはそのためだ。中の下の主人公から、あるいはドロを川底に貯めこんだ地球から、簡単に言えば「ウンチ」から、シジミのような地味ながらも滋養に富んだ食べ物が生まれてくる。それが命の本質なのだ。


この先、シジミ工場の経営者として、そしてよき母として妻として、主人公は生きていく。もう男に逃げられることもないだろう。なぜなら、彼女が撒いたウンチの河原から大きなスイカ(スイカップ)が生まれたとき、もう彼女には男に捨てられる理由とされたあの欠点などなくなってしまったからである。

2014年11月5日水曜日

早春物語――母を弔う娘の物語

原田知世演じる17歳の高校生「瞳」と(今年亡くなった)林隆三演じる42歳のおじさん「梶川」の恋愛(のようなもの)の衝撃にクラクラするのはちょっと待った。

あれが本当に女子高校生と中年男の年の差恋愛なら、こちらの顎が外れてもしかたがないのだが、実際には、瞳の姿を借りた亡き母が、昔の恋人である梶川と再びデートしているにすぎないのだろう。この映画の主役は、原田に憑依している死んだお母さん、とみた。

まぁ、そうとでも考えなければ、瞳が梶川に惚れる理由が分からない。その理由は、一応普通に推測することは出来る。瞳の友人が青学の三年生との恋愛に興じていて、それに瞳も刺激された、ということのようだ。しかし、どんなに友人に煽られたとはいえ、相手としておっさんを選ばなくてもいいだろう。しかも梶川は、上着のポケットに両手を突っ込みながら歩くような、冴えない男である。(やっかみが私の目を厳しくしているのかもしれないが。)一方、梶川と並んで歩く同僚は、ズボンのポケットに手を入れて普通に歩いている。念入りなことに、梶川の車のナンバープレートは「5963」だ。すなわち「ごくろーさん」と肩たたきされるような男なのだ。現実に、彼は会社をクビになる寸前だ。

ではなぜ?
この映画は、瞳と父親の間に、再婚相手の女性が入り込んでくることから始まっている。父は瞳とその女性を残し、出張で家を留守にする。三月の母の命日には戻るように瞳は念を押すが、父は出張を延ばして戻ってこない。結局、瞳は憤慨しながら、将来の継母と共に、母の墓参りを済ます。

これは正しい弔い方ではない、そう瞳は怒っていたのだろう。
4年前に亡くなった母の気持ちが休まる形でなければ、父の再婚は許されるべきではない。瞳は心のどこかでそう感じていたはずだ。そんな瞳の情念が(あるいは娘に取り憑いた母が)、昔の母の恋人、梶川の出現を呼び寄せた。そして自分がこの世に思い残したこと、つまり若き日に破局した梶川との関係を、娘に「清算」してもらう。

瞳も振り返ってそう理解したように、瞳と梶川の出会いは、母と梶川の出会いの再現であった。写真愛好家の瞳は、撮影の邪魔になっている車の持ち主を探していて(ここで5963を連呼する)、梶川と知り合いになる。かつて母も、カメラのシャッターを押してもらうことで梶川と出会っていたのだった。この後、瞳はひたすら母と梶川の経験を追体験していく。箱根へのドライブもそう、母がバイトしていた神田の喫茶店に梶川を呼び出したり、アテネフランセ近くにあった母の寮へも行ってみる。

途中、高校教師と教え子との心中事件がやや唐突に描かれている。それは世相を映し出す派手な事件のように受け取られもしようが、しかし、それも瞳と亡き母の過去と照らして理解されるべき事件だ。亡き母が梶川と別れることになったのは、母の友人の自殺(未遂)がきっかけだった。だから、母の身に降りかかった友人の自殺という大事件を、瞳もまた体験している、ということのようだ。

そういえば、瞳と知り合ってすぐに、梶川は自分の仕事について、3階建てのボロビルでくず鉄を売っている、と説明していた。だが、実際に瞳が訪ねてみると、立派な商社だった。これを中年男の謙遜と受け取るべきだろうか。だから梶川は瞳に惚れられるに値するかっこいい男なのか。いや、そうではない(と思いたい)。たぶん、我知らず梶川は、会社がまだ小さかった頃の20年前の話をしていたのだろう。つまり、梶川は瞳の母親と過ごした時間に、知らぬ間に引き戻されていて、その頃の話をしてしまっていたのだと思う。

最終的には、亡き母がなしえなかったことを瞳は代行する。それは、アメリカに旅立つ梶川を空港で見送ってあげることだった。搭乗直前の梶川は、瞳に「大好きだ」と真顔で言う。してやったり。瞳は、自分に視線を注ぐ梶川に背を向け、立ち去っていく。母を「捨てた」男を、娘が捨て返してやったのだ。空港を歩きながら、瞳は微笑んでいる。母の「復讐」を果たした娘の会心の笑みだ。

こうして、20年前に母がかなえられなかったことを、瞳は創造的に追体験した。それが、娘にしか出来ない、母の正しい弔い方だったのだろう。17歳の三月に、ここまでやり遂げた瞳は、ほんとうにあっぱれ、だな。

だから映画のラストで、瞳の顔を映さずに、「私は過去のある女になった」と音声だけが流れるのは、その台詞が、瞳だけでなく母の声でもあったからかもしれない。少なくとも私たちは、瞳の台詞のその前に「母のように」を補って聞くのである。



2014年9月17日水曜日

『ボックス!』――動物と話せる人はいいね

高校ボクシング部の映画だから、無条件にいいです。
冒頭、「吹き抜ける風を見た」というナレーションを聞いて、観るのをよそうかと思いましたが、映画の結末で同じ台詞が繰り返されたとき、いい一言だなぁと考えを変えました。

あらすじは、ボクシング映画ですから、それは大変な直球です。あしたのジョーでも、ロッキーでも、ジャッキー・チェンとかブルース・リーの映画とか、その手の物語にありがちな粗筋ではあります。しかし、「風を見た」という台詞は、「考えるな、感じろ」(byリー)とか「打つべし、打つべし」(by 段平)とかのレッスンとは全然違うたちのものであることは明らかです。

この映画では、ボクシング部の女子部員(谷村美月)が病気で死にます。映画の中ではありがちなことです。映画の通には減点対象にもなり得るでしょう。でも、部員の死は、やはりこの映画の中心であって、一番大事な出来事のように思います。

葬式では、生前彼女が残した言葉を、母親が部員たちに伝えます。「カブ君の天使になる」みたいな言葉です。これも、ありがちな台詞として減点されてしまうかもしれませんが、でもやはり、大事な台詞です。なぜなら、天使もまた目に見えないものだからです。つまりこの映画は、普通は見えないはずの「吹き抜ける天使を見た」という証言、あるいは少なくとも見える可能性を追求しようとしています。

この映画では、二人の部員が小さい頃から遊んでいた公園のような所が度々映し出されます。そこには、女神のような彫像があって、その伸びた腕の指先にUFOが載っています。そこで二人は、悪童たちから「おまえらUFOなんて信じているのか」と馬鹿にされたこともあります。むろんUFOも、「風」や「天使」の仲間です。普通の人の目には見えないですが、でも、きっといる。少なくとも、二人はそれが見える素質を持っている。

大切なのは、見えないものを見ることだけではありません。同じく、聞こえないものを聞くことも、この映画の細部は、わりとくどく繰り返します。それは、天使の声ではなくて、動物の声として表現されています。

あの「天使」が惚れたカブ君は、ちょっとした不良なので、授業をサボっては屋上で飼われているウサギを眺めていたりします。部室に行けば、そこには犬がいます。高校の部室で犬を飼うって、ありえない設定ですが、やはりそこには犬が必要なわけです。トレーニングで町を走れば、カブ君に向かって犬が尻尾を振っていたりします。

生前の天使がカブ君をデートに誘うとき、カブ君はウサギを見ていました。天使は、カブが試合に勝ったらデートしてあげると言います。動物園でデートするのだと言います。そんな天使を、カブは「ブタ」呼ばわりします。

そう、カブは完全に動物に囲まれています。そもそもカブという愛称自体も、子熊とか、動物の子供を意味する英語のようにも聞こえます。なぜ動物だらけなのでしょう。

その答えは、動物園の場面にあります。そこでカブは、虎と話をした、と言うのです。この映画が普通の格闘技系の映画なら、そのときカブが虎から聞くのは「考えるな、感じろ」的な格闘技の極意であるべきですが、全然そうでありません。むしろ、カブは虎の隠された弱さを打ち明けられました。

だからたぶん、天使のブタも、ただ強くなりそうな子熊(カブ)に惚れたのではないのでしょう。カブが抱えている弱さをカブが口にすることがなくても聞いてしまった。だから、世話をしてやりたくなった、ということのようです。もう彼女は、ボクシング部という「動物園」の飼育員のようでもあります。

ただ、もっと大切なのは逆のベクトルで、ブタ/天使の声を部員が聞くこと、です。試合中、カブは自分のトランクスに縫い付けられたブタのアップリケを見ます。このとき、カブは見えないはずの死者の姿を見、聞こえないはずの死者の声を聞いていたはずです。

最終的に、「ブタ」はカブにとって生きていく糧になります。糧とは、文字通り自分の命を支える食べ物であり、生活の根幹です。映画の最後では、カブが客を相手にお好み焼きのブタ玉を焼いている姿が映し出されます。

というわけで、もしも最初と最後の「風を見た」がカッコつけすぎの台詞だとしたら、「ブタがしゃべった!」でもよかったのでしょう。でも本当に「ブタがしゃべった!」で締めくくったら、ふざけすぎだと観客たちは文句を言うものです。なんであれ、「風を見た」という最後の台詞は「見えるものしか見ず聞こえてくるものしか聞かない世間はうんざりだ」、と一人の高校生が叫んでいるようにも私には聞こえました。

2014年6月8日日曜日

『春との旅』: ミッシングリンクが見つかりました

題名にある「春」とは、主人公の名前だ。もちろん春とは冬のあとに命が芽吹く季節なのだから、この映画自体もまた一つの「誕生」の物語になっている。

あらすじ自体は、誕生とはほど遠い。春の祖父が、自分の面倒を見てくれる親戚や友人を探して、春と共に北海道増毛の故郷から東北へ東京へと旅をする。兄弟友人といっても、漁師として人付き合いもせずに長年暮らしていた祖父なので、十数年ぶりに会う人たちばかり。兄も、姉も、旧友も、弟も、それぞれ事情があって、祖父を引き受ける余裕などない。露骨に邪険にされたりする。しかし、それもこれまでの自分が犯してきた不義理の報いだ。春はそんな祖父が繰り広げる様々な再会の模様を目の当たりにして、ますます祖父と共に暮らしていく決意を固めていく。だが、増毛へと戻る汽車の中で、祖父は眠るように事切れてしまう。

だから、元々は祖父のこれからの生活を模索するために始まった旅ではあったけれど、結末の祖父の死から振り返ってみれば、始まりというより最後の挨拶をする旅になったのだった。そして春にしてみれば、これまで会ったことのなかった親戚に紹介してもらう旅にもなった。

春と祖父が最後に訪ねたのは、春の父親の牧場だった。父と母は離婚していたので、春にとってこれも十何年ぶりの再会だった。その帰り、祖父と春は一軒のそば屋に寄る。ともに蕎麦をすすりながら、祖父は春が生まれる前の父と母の話をしてやる。牧場を経営する父の両親は、貧乏な漁師の娘である母を気に入らない。祖父も牧場へ挨拶に行ったが、結婚に反対され、その帰りに祖父と母が寄ったのがそのそば屋だった。そのとき母は身重だった。春を身ごもっていたのだった。母の涙が蕎麦に落ちていた様子を祖父はまだ覚えている。

そんな話を春は聞くことが出来た。訳あって離婚はしたものの、自分が生まれる前の両親がどれほど愛し合っていたかを春は知る。また、離婚後に母が父に対して感じた強い罪悪感は、強い愛情の裏返しでもあったろうし、父は父で母の面影をもとめ続けていたようだ。牧場で初めて会った父の再婚相手は、なんと母にそっくりだったのだから。

つまりは、祖父にしてみれば、春の父の再婚相手は、今は亡き自分の娘にうりふたつ、ということになる。だからなおさら、その再婚相手が自分のことを「お父さん」と呼んでくれたときに、祖父がどんな気持ちになったかは、察するに余りある。彼女は「お父さん」と呼びながら、一緒に暮らそうとまで言ってくれたのだった。だから、祖父はこの後すぐに死んでしまうけれども、最後の最後に夢のような出来事があったわけだ。いや、彼の目には、今は亡き娘が彼女の姿を借りて、自分を呼んでくれているようにさえ見えたかもしれない。

こうして、祖父にとっては、死出の旅立ちの準備が整った。
一方、春にとっては、これから一人で生きていく準備も整ったはずだ。これまで途切れていた親戚たちとのつながりが(祖父の最後の旅のおかげで)回復し、自分を苦しめ続けてきた父母の関係に対しても、新しい視点を獲得することができた。死んだ母と、死んだ祖父が遺してくれたものを引き継ぎながら、これから春はいい花を咲かせるんだろうな、と思わせる結末だった。


2014年4月17日木曜日

飢餓海峡:金は人の業、花は神の業

画面に不思議なものが映っていた。酒をつぐとっくりに、無造作に札束が差し込まれる。丸められたお札がとっくりの細い口から扇状に開いておかれている様子は、花瓶に挿された花のようだ。そのまま、お札の花は棚の一番上に置かれる。

その金の異様さはそれだけではない。それは突然映画の中に現れたのだった。物語の筋とは何の脈絡もなくその金は、飲み屋で働く女(八重)に押しつけれた。男が店に現れ、こないだは兄貴が世話になった、などといいながら八重に渡したのだ。八重も、さらに映画を見ている私にも全く訳が分からない。困惑した八重も店の女主人も、その金には手を付けない。

この世の誰にも属さないという点で、とっくりに花開いた札束はいわばこの映画の中の棚に供えられたように見える。祭壇に供えられた花が、この世の誰のものでもなく、あの世に向けられたもののように。

花ではなく、金が供えられたところに、この映画の核心がある。

八重と主人公の男(犬飼)の出会いは、青森の恐山の麓だった。犬飼は、大金を懐に津軽海峡をボートで渡り切ったところで、飢えに苦しんでいる。そこで、民家の軒先に干してあったトウモロコシにかぶりつく。ふと家の中を覗くと、恐山のイタコが、死者の声を語っている。行く道もない、戻る道もない、と。

それは、偶然にも八重の実家だった。この後すぐに、犬飼は八重と出会い、八重からおにぎりを二つもらって飢えをしのぐ。そのまま犬飼は、八重の働く「花屋」(売春宿の隠語)で一夜を過ごし、そのいわば代償として札束を新聞にくるんで、八重にあげてしまう。

これが、犬飼と八重の(幸福な)悲劇――というのも、後に犬飼に殺される八重は、実に幸せそうな顔を一瞬見せたからだ――の始まりだった。そこには、「花」と「金」の交換が描かれていたのである。

花を捧げるか、金を捧げるか。恐山の麓で、そして、犬飼が目撃した青函連絡船の遭難事故の悲劇の裏で、このあと花と金のドラマが繰り広げられることになる。

犬飼を追う老刑事も、赤貧の生活を送っていた。二人の息子は、芋をとったとられたでケンカをしているほどだ。その息子たちが成人したころ、ふたたび老刑事が犬飼を追って、函館から旅立とうとする。そのとき、かつて飢えていた息子が、今なお貧乏な父に、なけなしの金を差し出す。そして、食卓の上にあった何かに食いつくのである。画面でははっきり分からないが、その食べ方からして、トウモロコシであることはまちがいない。こうして私たちは、飢えた犬飼がかぶりついたトウモロコシと金のドラマが、老刑事の家庭においても小さく演じられていることに気付く。

いや、老刑事の家庭だけではない。社会もまた飢えていた。その後、実業家として成功した犬飼は、それゆえに多額の寄付をする。正確には、刑余者の更正事業のためだ。この金もまた、死者を弔うためなのだった。犬飼はかつて二人の刑余者の命を奪っていたからだ。しかし、この金の「お供え」が裏目に出る。

犬飼の多額の寄付を報じた新聞記事を八重が読み、犬飼を追ってくる。かつて自分に「供え」られた金に対して、礼を言うためだった。過去の亡霊のように現れた八重を、犬飼は殺してしまうわけだが、この罪の代償を犬飼はどうやって支払えばいいのだろうか。一度は女に、そして二人の刑余者に、金を捧げれば捧げるほど、犬飼は苦境に陥った。どうも、金では支払えないようだ。

一つの答えを映画の結末は示している。すでに逮捕されている犬飼は、刑事に頼み込んで函館へと連れて行ってもらう。その途中、犬飼の乗った青函連絡船からは、あの恐山が見える。そのとき、八重の故郷の海へ、犬飼は菊の花を胸に抱いて身を投げる。自分が殺した女に、こんどは金ではなく花をお供えするために。


そのとき犬飼の耳には、死んだ女の声が聞こえていたのかもしれない。行く道もない、帰る道もない、と。津軽海峡を渡って北海道へと行く道、いや戻る道は、そこでふつりと途絶え、もう一つの道を男に開いたに違いない。

2014年1月28日火曜日

東京家族: 見守っている人々

テレビでやっているのを観た。途中、役者の演技や台詞やカメラアングルや全てから小津安二郎の『東京物語』への愛がちょっとやり過ぎなほどあふれていて、いじわるな私にはどうしてもパロディーに見えてしまい、のめり込んで観ることはできなかった。
 それでも、いいなぁと思ったのは、画面の端々に映っていた人々のお節介ぶりで、自分のことを誰かが見ている/覗いている/見守ってくれている感じが良く伝わってきたことだ。

横浜の海岸に腰掛けて、老夫婦が話をしている。夫(橋爪功)が立ち上がり、妻(吉行和子)が後について歩き出す。しかし、すぐに気分が悪くなってしゃがみ込んでしまう。このとき、橋爪功が駆け寄って来たのは当然なのだが、面白かったのは、その様子を遊歩道や近くの建物の庭から何人かの人が見ていたことだ。遠すぎてその表情は画面に映っていない。だが、そのような赤の他人たちが心配そうにしていることは間違いなく伝わってきた。

あるいは、ある小料理屋で橋爪が旧友と悪酔いする場面でも、カウンターの端から二人のことをちらちら見ているサラリーマンの姿が映し出されている。その視線が共感であれ敵意であれ、何を意味しているにせよ、少なくとも酔いつぶれている老人二人に無関心でないことだけは確かだろう。

いや、その視線は無関心であってもいいのかも知れない。吉行と息子(妻夫木聡)の婚約者(蒼井優)が、妻夫木の部屋で二人っきりになっている場面でも、アパートのドアが開け放たれていて、その向こうでは、別の部屋の窓が開いていて、人の姿がちらちらと見えている。掃除でもしているのだろうか。画面からでは何をやっているか分からないし、その人物が吉行と蒼井のことを見つめているわけでもない。しかし、風通しが良くて、さわやかな場面なのだ。

いや、その視線は生きている人からのものでなくてもいいのかも知れない。映画の結末、吉行は亡くなり、遺骨となって故郷に戻った。海が見渡せる実家の茶の間では、橋爪が蒼井と向き合っている。それまで蒼井は、自分に対する橋爪の態度がよそよそしく冷たいと感じていた。しかし、ここで橋爪は蒼井に話しかける。そして礼を言う。蒼井のことをとても気に入っていた妻の気持ちを、このとき橋爪は理解出来るようになっていたわけである。こうして蒼井を通して、老夫婦は互いの絆を確かめ合った。たとえ、片割れが既に死んでいたとしても。だからこのとき、やはり画面の端には、吉行の遺影が映っている。死者からの眼差しが、橋爪と蒼井に注がれている。これはただの慰めに満ちた比喩ではない。現実に、あの瞬間、亡き妻の気持ちが、蒼井を媒介に、夫へと伝わっていたのだから。


2013年12月13日金曜日

Love Letter: なぜ「青い珊瑚礁」を歌って死んだのか

北海道に来てはや六年目、小樽を舞台にした映画『Love Letter』を遅ればせながら観た。(『ラストレター』はこちら

主人公(渡辺博子)の婚約者は、山で遭難して死んだ。当時の登山仲間たちは、なぜか「青い珊瑚礁」を口ずさむ癖を持っている。渡辺はその選曲を不思議に思う。実は、谷底に落ちた彼が、死ぬ前にその曲を歌っていたのだった。谷底から聞こえてくる彼の歌声を登山仲間たちは聞いていたのだ。しかしそれにしても、なぜ「青い珊瑚礁」なのか。それは仲間たちにも分からない。

だが、渡辺には分かったのかも知れない。

なぜなら「青い珊瑚礁」の話を聞いた直後、渡辺は「実は彼からプロポーズされていない」と登山仲間たちに打ち明けたからだ。内気な彼がなかなか切り出さないので、渡辺は自分から結婚してくださいと口にし、彼が頷いたのだという。

なぜ渡辺は、そのことを思い出したのか。それは「青い珊瑚礁」のせいではなかったのだろうか。

彼は死ぬ前にその曲を歌った。それは、松田聖子が流行っていた自分の中学生時代を彼が思い出していたからだろう。いや正確には、中学生の頃に自分が片思いしていた女の子、藤井樹のことを思い出しながら彼は死んだのだろう。転校して離ればなれになったあと、自分の恋も南の風に乗って届けと願った相手が、彼の最後の思いとなった。

ということは、彼の本当の気持ちは自分にではなく、ずっと中学時代の同級生に向いていたことを渡辺は直感したはずだ。だから彼は自分にプロポーズする決心がつかなかったのだ、と渡辺は心のどこかで気付いたのだろう。

こうして、渡辺は新しい恋に進んでいくことが可能になる。だから、渡辺と彼の恋物語は、それほど面白いものではない。死んだ彼はあまり自分のことを好きではなかったようだから、もう知らなーい、という割り切りが可能なので。

興味深いのは、彼に惚れられていた藤井樹の物語だ。映画の最後で、彼女は図書係の中学生たちから一冊の本を受け取る。そこに挟まれていたのは、中学時代の彼が図書カードの裏に描いた彼女のポートレイトだった。それはいわば、彼からの実に控えめな「告白」だった。彼女には中学時代にそれに気付くチャンスがあった。その本は元々、彼が彼女に手渡して、図書室に返してくれるよう頼んだものだったからだ。しかしその本に隠されていた「ラブレター」を彼女が知ることになったのは、もはや「青い珊瑚礁」がナツメロになりかけている頃だった。

こうして死者からの「ラブレター」を受け取ってしまった彼女は、これからどうすればいいのだろう? 失われた時間を、どうやって取り戻せばいいのだろう? そう私たちが問うよう、彼女の受け取ったプルーストの本のタイトル『失われた時を求めて』も誘っている。

この映画なりの答えは、彼女の名前にあるのかもしれない。映画のラストでやっと、彼の名前が彼女と同じ「藤井樹」であるという一見無理矢理の設定に、多少納得できるような気がする。これから彼女は、(彼が過去において経験したように)吹雪の中で死にそうになるだけでなく、(彼の未来がそうなるはずであった)ガラス職人の道を歩んでいくのかも知れない。なにしろ彼女は、ガラスの町小樽に住んでいるのだから。

中学の彼女に似ているから自分が選ばれたと気付いて不満に思う渡辺は、いわば「代役」になることを嫌った。一方、女藤井樹は、男藤井樹の代役、あるいは「双子」の片割れとして生きていくことを(そうとは意識していないだろうが)引き受ける。こうして、一人二役を演じた中山美穂を起点に、「代役」であることの表と裏が巧みに描かれていたように私には見えた。

ところで、偶然にしては出来すぎていることに、私は母校の作文コンテストの審査員として、来週ほぼ三十年ぶりに高校の図書室に行って、作業をすることになっています。不思議な縁です。